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インドネシアの記事投稿サイトで「日本では断食をしない人を尊重しよう」という記事を見つけたのでご紹介します。東京でエコノミストとして働くインドネシア人ムスリムが異国の地で迎えた断食月で一体 何を感じたのでしょうか?

日本では断食をしない人々を尊重しよう

東京での断食は特別な側面を持つ。これは東京の雰囲気がインドネシアと異なるからだ。インドネシアの場合、ラマダン(断食月)は皆で楽しむお祭りのようなもの。断食月が訪れると、モール、ショッピングセンターやオフィス街の雰囲気はイスラム的なものへと変わる。様々な場所で、多くのレストランが店を閉めたり、カーテンをかけたりする。立ち入り捜査のリスクを背負いたくない場合は、夜の歓楽街でも閉店する店が出てくる。断食をしている人間を尊重するというのがその理由だ。

だが、東京ではそんな事は起こり得ない。断食月であっても逆に、人々はいつも通りに生活する。東京の飲食店は店を閉めることはなく、カーテンがかけられることもない。人々はいつも通り人前で飲食を行ない、歓楽街も相変わらず営業中だ。

日本は当然のことながらイスラム国家ではなく(訳注:インドネシアもイスラム国家ではありませんが、国民の多くがイスラム教徒のため、断食月には彼らに対してある程度の配慮が求められます)、全国的な行事として断食を行なうことはない。しかし、だからといって断食を行なう者たちの気持ちに水が差される訳ではない。日本での断食は特別な意味を持っている。なぜなら、イスラム教徒は欲望を抑える、他者を尊重する、個人や集団のエゴを消し去るといった断食の本質がそのままに得られるからだ。

私はこれまで、断食を行なう人間は尊重されるべきだという考えを持つ傾向にあった。断食を行なう者の前で食事をとる者がいれば、それは断食を行なう者を尊重していないとみなしていた。だが、日本では逆に、私たちが断食を行なわない人々を尊重しなくてはならない。断食を行なう者が断食をしない人々を理解しなかったり、ましてや、断食をしているからといって特別な設備や配慮などを求めてはならないのだ。

ある時、日本人の同僚が私に、なぜ食事をしないのかと尋ねたことがある。その時初めてイスラム教徒が断食をしていることに気が付いた彼らは当初、真夏の断食は危険だという理由から私の健康を心配していた。しかし、私が断食の本質を説明すると非常に納得し、敬意を払ってくれるようになった。日本人も断食を知っている。彼らはインドネシア語の「プアサ」を断食と呼んでいる。この用語は飲食をしないという日本文化(神道、仏教)の教えを指している。

断食を行なわない人々への配慮は日中だけに行われるものではない。日が暮れると、東京でのタラウィ―(断食月の夜の礼拝)は周囲の環境に配慮し、静かに落ち着いて行われる。モスクや礼拝所など東京の複数の地域で行われたタラウィ―では拡声器を使った外部に向けての呼びかけは行われない。拡声器は室内でのみ用いられる。これは断食を行なわない日本の人々の邪魔をしないという寛容さのあらわれであるといえる。

日本での断食はひとつの教訓を与えてくれる。すなわち、他の信徒をお互いに尊重し合うことはイスラムがさらに理解され尊重されるためのカギであるということだ。断食を行なう私たちに、それを知った日本人の同僚たちは敬意を示してくれた。私たちがそれを禁止したり、問題にしたことはないというのに、彼らは断食を行なう者の前で飲食をしようとはしなかった。

私は日本で暮らす中で、日本の人々も本質的な意味での「断食」を行なっていると感じるようになった。だからこそ、私たちはお互いに尊重し合わなければならないといえる。

道路での「断食」。彼らは運転中に互いに押しのけ合ったりはしない。バスや電車での「断食」。彼らは周囲の人間に迷惑をかけたくないという理由からおしゃべりをしたり騒がないようにする。公共交通機関で犯罪やスリなどを行なわないこともまた「断食」といえる。

仕事中でも「断食」をする。彼らは他人の欠点をあげつらったりはしない。より広範な社会や組織のために私益を抑えることもまた「断食」だ。彼らはきちんと列を作り、ごみはゴミ箱へ捨て、社会生活を送る上での秩序を保っている。

これらの行為もまた私たちの断食の本質ではないのだろうか。すなわち、自分たちの欲を(単に断食明けまで)先延ばしにするのではなく、(私たちが生きている限り)それを抑えていかなければならないのだ。

断食月おめでとう。そして、断食を行なわない人々を尊重しよう。東京にて。(2011年8月7日)


【管理人コメント】
今年の断食月は6月下旬から始まります。

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