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マラリ事件時、黒煙が立ち上るジャカルタ市内

2014年1月18日付けのインドネシア・コンパス紙に「回想 マラリ事件から40年」という評論が掲載されたのご紹介します。1974年、田中角栄首相のインドネシア訪問をきっかけに発生した大規模「反日」暴動が日本に与えた影響とは?

参考:
1月15日事件

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1.事件の経緯:1974年1月15日にジャカルタで起こった「反日・反政府暴動」。マラリ事件とも呼ばれる。同年1月14日の田中首相(当時)のインドネシア訪問に際し、日本製乗用車の焼打ち、有力合弁企業トヨタ・アストラ社やスネン市場および華人系商店などへの放火、略奪が行われた。軍は17日には「暴動」を鎮圧したが、死者11名、重軽傷者137名、逮捕者775名を数えたことが公式に発表された。事件後、10種の新聞雑誌が反日・反政府気運をあおったとして発禁処分となった。

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2.評価:この事件は、それまでの数年間のスハルト政権の強権的政策に対して民主的諸権利の回復を求める学生・知識人による運動、ならびに先進資本主義諸国からの援助や資本に支えられた近代化政策(開発政治)に対する批判としても理解できる。

外資と癒着したひと握りの特権層と一般民衆との貧富の格差が増大しており、73年8月の「バンドゥン反華人暴動」を契機に国内の政治的社会的緊張が高まっていた。さらに日本は当時の援助額および民間投資額で第1位を占めており、スハルト政権の強力な支援国でもあった。

また、この事件を国軍内部の権力闘争に起因するものとみる解釈もある。スハルト大統領に次ぐ権力No.2を巡る闘争で、大統領補佐官アリ・ムルトポが少将と治安秩序回復作戦本部司令官スミトロ大将との間のあつれきが主な原因であったとするものである。

いずれにせよ、この事件は65年9月30日事件以来インドネシアが経験した最大の政治的危機だった。(後藤乾一) 

『インドネシアの事典』(同朋舎出版、1991年、68頁) 

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回想  マラリ事件から40年
コンパス、2014年1月18日

マラリ(※訳注)事件として知られる1974年1月15日事件はスハルト政権にとっての重大な分水嶺となる一方で、同時に日本の対インドネシア外交政策を劇的に変化させる契機でもあった。

※訳注 インドネシア語の「1月15日の災難(Malapetaka Limabelas Januari)」を省略してマラリ(Malari)と呼ばれている。

当時の記録によれば、同事件では死者11人、負傷者300人、逮捕者775人が発生。807台の自動車と187台のバイクが炎上、144の建築物が破壊された他に、複数の宝石店から160キロの金(きん)が持ち去られた。しかし、注目すべきは、事件後にみられた両国の見解と政策に関する相違である。

この暴動は田中角栄首相のジャカルタ訪問中(1974年1月14-17日)に発生した。学生たちは田中首相が到着するハリム空港で抗議デモによる出迎えを計画していたが、厳重な警備に阻まれ、空港内への侵入を断念した。

1974年1月17日午前8時、田中首相は大統領官邸から車ではなく、スハルト大統領に見送られる中、ヘリコプターで空港へ向かった。これは首都ジャカルタがなお緊迫した状態にあることを示していた。

マラリ事件は様々な視点から見ることができる。この事件を海外、とりわけ日本資本の流入に異を唱える学生らによる抗議デモと見る向きがある一方で、複数の専門家が、強大な権力を握るスハルト大統領補佐官(アリ・ムルトポ、スジョノ・フマルダニなど)に対する知識人たちの不快感の現れであると指摘している。また、スミトロ将軍とアリ・ムルトポの対立など、国軍エリート間の摩擦に言及した分析も存在する。

ジャカルタでは抗議デモに合わせて暴動、焼き打ち、略奪が発生し、市内には黒煙が立ち上った。マラリ事件の後、スハルト大統領はスミトロを国軍治安回復部隊司令官から解任。自らがその職務を受け継いだ。同時に、大統領補佐官制度も廃止された。国家情報調整庁長官のストポ・ユウォノは大使となって転出し、後継にはヨガ・スガマが指名された。

1974年1月15日暴動が国賓の目の前で発生した事で、スハルト大統領は自らの面子をつぶされた。こうした抑えがたい恥ずかしさから、スハルト大統領は事件後、あらゆる個人と集団に対して警戒心をあらわにし、政府の障害となり得る勢力に対して容赦のない制裁を課した。そして、自らの側近を選ぶ際にも、「大統領補佐(ajudan presiden)経験者」といった基準を設けるなど、極めて慎重に行うようになった。

あらゆる取り組みが、物理的にも心理的にも、権力の維持と強化を目的として行われた。こうした面を勘案すれば、1974年1月15日事件はスハルト政権の暴力性を示す歴史的な節目と呼ぶことができる。事件以降、スハルト政権によってさらなる組織的な弾圧が行なわれていった。

日本側の視点

慶応大学の倉沢愛子名誉教授-インドネシアにおける日本軍政時の研究や日イ両国での聞き取り調査などで知られる-によると、日本政府は実のところ反日デモの発生自体はあらかじめ予測していたが、あれほどまでの激しさになるとは考えていなかったという。

日本政府の分析では、この事件はインドネシア在住日本人がとる尊大な態度や姿勢に対する批判とされている。彼らがインドネシアの文化や宗教、および現地住民の感情にさほど理解を示してこなかったためだ。日本外務省は事件を受けてただちに文化交流プログラムを実施した。

1974年(※訳注)には日本外務省が国際交流基金を設立し、インドネシアを含む東南アジア諸国に対してより広範な関心を向けるようになった。事件の余波は日本実業界にも及んだ。マラリ事件の直接的な影響を受けて、トヨタ財団が設立された。いち私企業が運営するこの種の組織は事件以前の日本では見られなかったものである。トヨタ財団は十分な資金を提供することで、日本における東南アジア地域研究の促進、および同地域文学の翻訳助成を行なってきた。

※訳注:国際交流基金ホームページによると、同基金は「1972年に外務省所管の特殊法人として設立」。1974年に設立されたのは同基金のジャカルタ駐在事務所。

倉沢教授によると、多くの日本企業が1960年代以降にインドネシアへ進出したが、同国に関する知識は乏しいものであったという。当時、第2次世界大戦後の日本では東南アジア研究は全く顧みられることがなかった。専門家たちは日本軍政を支援した過去にトラウマを抱え、東南アジア地域に関する研究を避けていた。日本で東南アジア地域研究が盛んになったのは、ちょうどマラリ事件以後のことである。日本政府もインドネシア地域研究を重要なものと認識し、自国企業がインドネシアへ進出する前に十分な知識を得られるようにした。

マラリ事件が日本政府及び日本人に与えた影響は大きく、事件をきっかけにインドネシアに対する姿勢に変化が生じたと倉沢教授は指摘する。インドネシア在住の日本人たちは事件以前はやや傲慢であったが、より礼儀正しく、慎重な態度を取るようになったという。

マラリ事件を受けた両国の対応には違いがみられる。スハルト氏は自身の大統領としての地位を守るため強行に政策を変更し、自身の地位を脅かし、ましてや実権を奪う可能性がある部下を排除した。しかし、外国投資や国産自動車製造計画における基本的な政策に変化は見られなかった。

日本は東南アジア諸国に対する外交政策をただちに変更した。これには当然インドネシアも含まれ、両国の文化交流が推進された。日本におけるインドネシア地域研究は第2次世界大戦以後ないがしろにされてきたが、マラリ事件以降には進歩がみられるようになった。そして、日本企業もインドネシア進出前に現地に関する十分な知識を持つべきとされたのである。

アスフィ・ワルマン・アダム(歴史研究者、インドネシア社会科学院)

Kompas, Sabtu, 18 Januari 2014
Refleksi 40 Tahun Malari
Asvi Warman Adam, Sejarawan LIPI 

「マラリ事件から40年」-現地ニュース番組より

【関連記事】
「再現 マラリ事件 宴一変、恐怖の闇 反日暴動から40年」
(2014年01月13日『じゃかるた新聞』、暴動を現地で体験した日本人の回想が中心)
(インドネシアで)「反日」の嵐が吹いた日があった-小川忠
(国際交流基金ジャカルタ事務所長によるコラム、マラリ暴動をテーマに上記のコンパス紙およびじゃかるた新聞記事にも言及)


【管理人コメント】
この事件に関心を持たれた方は、手始めに上記の【関連記事】をご一読ください。おすすめです!以下の引用は、小川忠さんの上記コラムからです。

(前略) インドネシア社会科学院の歴史研究者アスヴィ・ワルマン・アダム氏が「コンパス」紙(1/18)上の「マラリ事件40周年回想」と題する寄稿において、前述倉沢教授の研究を参照しつつ、日本とインドネシア、マラリ事件からそれぞれ何を学んだか、という点について述べていた。「スハルト政権は権力集中を強化するために事件を利用したが、日本はこの事件を教訓に、官民あげて文化交流を強化し、インドネシア研究を盛んに行い、インドネシア文化、国民感情に配慮するようになった。より賢明な政策転換を行ったのは日本である」。

このようなインドネシアからの声に接して、胸を張るのではなく、改めて日本も襟を正すべきであろう。「テンポ」「コンパス」等インドネシアの代表的メディアが、マラリ事件40周年に関連する記事を掲載したが、私の知る限りでは日本では話題にならなかった。

いま、気がかりなことがある。現在のインドネシア対日感情の良さが、日本人のあいだで単純化、拡大解釈され始めているような気がするのだ。「(中国、韓国と違って)根っからインドネシア人は日本ひいき」といった言説が近頃よく聞かれる。危うい認識だ。

ジャカルタで暮らす者であっても、世代交代が進むなか、かつてこの国に厳しい対日感情が拡がっていた記憶、そうした感情が存在することを前提に自らの暮らし方を律していかねばならないという自戒の念が希薄化している。

マラリ事件をふりかえることは、先人たちがインドネシア、東南アジア社会との関係作りを真剣に模索した、その営為を学ぶことに他ならない。(後略)