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東ジャワ州バトゥの英雄墓地に埋葬された小野盛と祈りを捧げる現地人参拝者ら。小野の棺にはインドネシア国旗がかけられ、国軍兵士らの先導で地元の英雄墓地まで運ばれた。

第2次大戦後、インドネシアに残り対オランダ独立戦争に参加した元残留日本兵の小野盛(さかり)さんが2014年8月25日朝に亡くなりました。日本では各種メディアで取り上げられましたが、現地インドネシアでは小野さんの訃報はどのように報じられたのでしょうか。以下に、今回の訃報に関するインドネシアメディアの報道をまとめました。

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小野しげる、インドネシアを守った日本兵
2014年8月19日火曜日14時58分(WIB)

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TEMPO.CO, Malang - 一振りの日本刀がベッドの左側、小野盛こと小野しげる 【訳注】 の頭近くに立てかけられていた。小野はぐっすりと眠っていた。時折、大きないびきが聞こえてきた。

【訳注】 「ラフマット・小野の日本名の本名は、『盛(さかり)』であるが、インドネシア独立軍に身を寄せた際に『しげる』と名乗った。以後、インドネシア国籍編入の申請書を提出する際も『しげる』を使用。現在でも郵便物は『しげる』で送付されてくる」(林英一『残留日本兵の真実』、13頁より引用)。ラフマットは小野のインドネシア名。

「パピはこのところずっと寝たきりです。もうほとんど何もできません。医師の話では、チフスにかかっており、血管の腫れも見られるそうです」と、ラフマット・シゲル・オノとダルカシ夫妻の三男 グス・スティクノ・オノは2014年8月17日夜に語った。

「パピ(おとうちゃん)」という呼び方は、小野の子供、その配偶者、孫、ひ孫、および親族が親しみを込めて使っているものだ。1945年から49年にかけての独立戦争期にともにインドネシアを守った元日本兵は、この1週間、バトル市シドムルヨ村にある自宅のベッドで寝たきりとなっている。

小野の日常な看病は主に、娘のアスクック・スリカとエリー、および大きくなった孫たちとメイドが担当している。スリカの話では、レバランの前日に突然の体調の悪化から倒れかけたこともあるという。

しかし、数日後には体調も上向き、最終的に2014年8月11日(月)から14日(木)にかけてバトゥの病院に入院するに至った。「医師の話では、パピの病気は年齢的要因と多くの訪問客を受け入れた疲れによるものです」とスリカは語った。

小野は先日、大統領宮殿から独立記念式典参加の招待を受けたが、病気を理由に辞退した。この式典には他の退役軍人数百人も招かれていた。小野が公の場に姿を見せたのは2014年1月2日、インドネシア共和国退役軍人協会の第57回記念式典が最後となった。

小野は1919年9月26日、北海道の富良野で生まれた。1945年12月、日本軍が連合国へ無条件降伏してから5か月後にインドネシア軍へ加入した。

独立戦争期、オノは1948年6月に結成されたインドネシアのエリート部隊のひとつ、日本人特別遊撃部隊(PGI, Pasukan Gerilja Istimewa)の隊員となった。この部隊は東ジャワ州ブリタルのウリンギを拠点とし、部隊長をブン・アリフこと吉住留五郎が、副隊長をアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫が務めていた。

日本人特別遊撃部隊は敵軍に遊撃拠点を知られた後に崩壊した。1949年1月3日には、アブドゥル・ラフマン(市来龍夫)がマラン県ワジャック郡スムブルプティ村アルジョサリ集落での戦闘で戦死した。同じ年に日本人遊撃部隊は改編され、ウントゥン・スロパティ十八部隊と名前を替えた。

インドネシアの対オランダ戦争に加勢したのは、日本がインドネシアを独立させるという約束に負い目を感じていたからだと小野は語る。「その約束ももちろんですが、オランダにやられ撃たれていくインドネシアの人々を見るのが忍びなかったからです」と小野は2013年10月末に語った。

ジャカルタの「福祉友の会」の記録によれば、903人の日本兵がインドネシア兵士らとともにゲリラ戦に身を投じた。うち531人(59パーセント)が死亡もしくは行方不明。324人(36パーセント)がインドネシア国籍を取得。残りの45人(5パーセント)は日本へ帰国した。



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第二次世界大戦期にインドネシアを守った日本兵
2014年8月17日

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キャプション:小野盛は日本出身の独立戦争退役軍人。後にインドネシア国籍を取得した。インドネシアに蔓延する汚職を目にし、自らの闘いは無意味なものであったと感じていた。

Liputan6.com, Jakarta - 1945年、日本の第二次世界大戦における敗戦が宣言され、インドネシアにいた日本兵は祖国へ帰国した。しかし、日本兵の中には現地に留まり、インドネシアの独立を助けるために、オランダ軍と戦った者たちもいた。

2014年8月17日日曜日に放映されたSCTVチャンネルの番組「Sosok Minggu」において、「福祉友の会」の調べでは903人の日本兵がインドネシアの防衛を選択したという。そのうちの243人が戦闘で死亡、228人が行方不明、そして残りの324人が新たな祖国として最終的にインドネシアを選んだ。

そうしたインドネシアを祖国とした元日本兵の一人が、現在ではラフマット・オノ・シゲルとして知られる小野盛だ。小野盛は20代の頃にインドネシアへ派遣された。彼に与えられた任務はインドネシア兵士に対する戦闘技術教練だった。

日本が敗戦を迎えた時、小野は祖国への帰国を拒否した。彼はインドネシア兵士とともに戦う道を選んだ。小野にとって、自身の選択と行動は日本の天皇の約束を実現するためのものだった。彼は日本が植民地支配者と呼ばれることを望んではいなかった。

小野は自らの選択に全責任を負った。全身全霊をかけて戦い抜いた。ともに戦った仲間の目には、小野は恐れをしならない人物として映ったという。彼はまた、インドネシアの独立を守る闘いを続ける中で左腕を失った。

小野はやがてインドネシア人女性と結婚し、6人の子宝に恵まれた。自身の名前もラフマット・シゲル・オノに改名した。独立戦争時の数々の貢献を理由に、ラフマット・シゲル・オノは1958年のスカルノ政権期にゲリラ勲章を授与されている。

ラフマット・シゲル・オノはインドネシアを愛している。しかし、この独立戦争の闘士は汚職事件が繰り返されるインドネシアの現状を大いに憂いている。そればかりか、自らの闘いが無駄であったと感じることも多いという。

95歳の現在、ラフマットは対オランダ独立戦争に加わった存命する最後の元残留日本兵となった。インドネシア各地で独立69周年が祝われる中、そこには病床に伏せるラフマットの姿があった。

もはや長時間の話をすることはできない。しかし、小野はインドネシア民族が光り輝き、さらに繁栄していくことを願ってやまない。

「インドネシアは発展し...さらに強くなれる...国際的にも...それが望みです...」と小野は病床から声を絞り出した。

(リンク先の出典に5分程度の動画あり)

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日本の45年戦争退役軍人、マランで死去
2014年8月25日月曜日13時38分(WIB)

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キャプション:日本出身の1945年戦争退役軍人、ラフマット・シゲル・オノ(小野盛)の墓前で祈りを捧げる参拝者たち。2014年8月25日東ジャワ州マラン、バトゥの英雄墓地で撮影。

TEMPO.CO, Malang - 45年戦争の退役軍人、小野盛ことラフマット・シゲル・オノ少佐が2014年8月25日月曜日午前5時50分、ムハマディヤ・マラン大学病院の集中治療室(ICU)で亡くなった。95歳だった。

小野とダルカシ夫妻の三男、アグス・スティクノ・オノは、故人はチフスと血管肥大のため治療を受けていたと話す。「医師の話によれば、(故人の病気は)年齢的な要因によるものです」とアグスは語った。

小野の遺体は今後、バトゥの英雄墓地に埋葬される。アグスによれば、小野の葬儀はマラン県およびバトゥ市/0818軍管区司令官のアフマッド・ソリヒン中佐に先導されるという。

小野は体調悪化を理由に、大統領宮殿から招待を受けた第69回インドネシア独立記念式典への出席を取りやめていた。この式典にはスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領や他の退役軍人数百名も出席していた。

1919年9月26日、小野は日本の富良野で生まれた。1945年12月、日本が連合国に無条件降伏した5か月後にインドネシア軍へ加入した。

1945年から1949年にかけての独立戦争期、小野は1948年6月に結成されたインドネシア共和国のエリート部隊のひとつ、日本人特別遊撃部隊(PGI, Pasukan Gerilja Istimewa)の隊員となった。この部隊は東ジャワ州ブリタルのウリンギを拠点とし、部隊長をブン・アリフこと吉住留五郎、副隊長をアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫が務めていた。

1949年、日本人特別遊撃部隊は敵軍に遊撃拠点を知られた後に崩壊。アブドゥル・ラフマン(市来龍夫)は戦死した。日本人遊撃部隊はその後 改編され、パスルアンを本拠とするウントゥン・スロパティ十八部隊となった。

独立戦争時における小野の英雄的行為は、1958年にスカルノ大統領から退役軍人勲章およびゲリラ勲章が授与されたことが証明している。

ジャカルタの「福祉友の会」がまとめた記録によれば、インドネシアの兵士らとともに903人の日本兵がゲリラ戦に身を投じた。うち531人(59パーセント)が死亡もしくは行方不明、324人(36パーセント)がインドネシア国籍を取得、残る45人(5パーセント)は日本へと帰国した。

2013年10月15日に「福祉友の会」会長のウマル・ハルトノこと宮原永治少尉が死去した事で、小野は日本の45年戦争退役軍人の最後の一人とみられていた。



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追悼:インドネシアのために戦った日本人、95歳で死去
『ジャカルタ・ポスト』紙(2014年8月27日水曜日)

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インドネシア独立のために戦った存命する最後の日本兵のひとり、ラフマット・シゲル・オノが日曜日、東ジャワ州マランで亡くなった。95歳だった。

「父は高齢ではありましたが、(ラマダンの)断食を行なっていました。毎朝、杖をついてモスクまで歩くのが日課でした。病気であっても、自宅に多くの訪問客を受け入れています」と次男のエルはラフマットの生前、ジャカルタ・ポストに語っている。

ラフマットは1918年9月26日、日本の北海道で生まれた。独立戦争期にオランダと戦った日本兵324人のひとりであり、後にインドネシア市民となった。

【訳注】 ラフマット・シゲル・オノこと小野盛は1919年9月26日生まれ。また、「福祉友の会」の調査に基づくと、「オランダ領東インドでは、903人の残留日本兵が発生したとされる」という(林英一『残留日本兵』、33ページ)。

ラフマットは満州で戦うために20歳で大日本帝国陸軍に入隊し、1942年に当時 オランダ植民地の一部であったオランダ領東インドへ派遣された。

西ジャワ州バンドンでラフマッドはペタ(PETA)-第2次世界大戦時に日本が率いたインドネシア人義勇軍-の教官となった。ペタは後に結成されたインドネシア国軍の中核となった。

1945年8月15日に日本が降伏すると、ラフマットはアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫が率いた日本人遊撃部隊に参加した。彼は東ジャワのスメル山でオランダ軍との戦闘中に、爆発事故で左腕を失った。

「日本のインドネシア占領に関する話の全てが真実とは限らないと父は話していました。多くの日本人が中国人商人と同様、現地コミュニティに溶け込んでいたが、彼らの行動は労務者(romusha)に関する残虐な説明の陰に隠れてしまったのだ、と」とエルは、第2次世界大戦中の強制労働であるインドネシア人の虐待に言及した上で語った。

第2次世界大戦のおよそ10年前からインドネシアで暮らしていた市来は、後にラフマットが参加することになる部隊を結成した。ラフマットが市来の部隊への加入を決めたのは、インドネシアを独立させるという約束が日本の敗北によって反故とされたことに失望を覚えたためだ。

【訳注】 市来龍夫は1928年からスマトラ島パレンバン、ジャワ島のバンドンおよびバタビア(現在のジャカルタ)で暮らした。30年代後半に一度日本へ帰国したが、1942年の日本軍政の開始に合わせて、軍とともに再びバタビアへ戻った。(林英一『東部ジャワの日本人部隊』、第二章)

しかし、インドネシアのために戦った日本兵の中には祖国に戻った場合、戦争犯罪に関する裁判にかけられる者もいただろうと歴史家は指摘する。

「市来さんの家族とはインドネシアで何度かお会いし、子供の頃の思い出などたくさんのお話を伺いました。当時は友人らに『侵略者の子供』と呼ばれたこともあるそうですが、ご家族の皆さんは自分たちの父親の行為を誇りに思っていました」とエルは語った。

「市来さんはマランのバトゥで、後に私の母となる女性を父に紹介してくれました。母ダルカシは地元リンゴ農家出身のジャワ人でした」とエルは続けた。

1982年に亡くなったダルサキの家族はラフマットのインドネシア在留を後押しした。ラフマットは当時、日本政府からは市民権を取り上げられ、インドネシア国籍もまだ取得していなかった。

「母の家族は父にリンゴの栽培方法を教えました」とエルは話した。「貧しい暮らしではありましたが、両親はどうにか日々のやりくりができるようになったといいます」

ラフママットは1951年にインドネシア市民となり、家族を支えるためにジャワやカリマンタンで大工、精米業、家禽飼育として働いた。彼は日本の親類へ自分の爪と髪を送っていたので、彼らは小野がすでに戦死したものとして考えていた。

【訳注】 小野は1953年にインドネシア国籍への編入と「独立戦争参加章」を求める上申を行なった。その結果、1962年6月18日付で、独立戦争参加日に遡って有効とする国籍所有証明書が正式に下附された。(林英一『残留日本兵の真実』、298ページ)

「父は2000年に消化器障害の手術を受けています。強盗にナイフで刺された傷が原因でした。しかし、父は晩年になってもなおリンゴ農園でクワを振っていました。本当に働き者でした」とエルは話した。ラフマットは1970年、ジャカルタ・タムリン通りのサリナデパート付近で強盗と格闘し腹部を刺されている。その当時の刺し傷が原因となった痛みを軽減するための手術であったという。

ラフマットは最終的に日本の家族と再び連絡を取るようになった。エルは日本でしばらく働いた際に、父の親類を訪ねた。四男の實人(まこと)は老人ホームで暮らしていた。五男の正人はすでに亡くなっていた。そのため、「正人さんの娘、ユキ・オノ 【訳注】 がバトゥに半年間滞在してくれたことがあります」とエルは話した。

【訳注】 原文は「Yuki Ono」。漢字等は不明。

小野の娘、スルナニもエルに続いた。「私たちはお互いの食べ物を交換しました。彼女たちが日本の料理を持ってきて、私たちはジャワの料理を振る舞いました。私たちはムスリム家庭に生まれたものとして、彼女たち一家の神道への信仰に深い敬意を抱いています」

スルナニによれば、ラフマッドは親類からもらった模造刀をいたく気に入っていたという。「父が持っていた本物(の日本刀)は戦闘中に紛失したそうですが、父はこの刀をインドネシア独立記念日の式典へ常に持参していました」

1958年、ラフマッドはスカルノから退役軍人勲章(the Veteran’s Medal)およびゲリラ勲章(the Guerrilla Medal)を授与された。また、ムルデカ(独立)広場で開催されるインドネシア独立記念式典にも毎年招待されていた。

「父は自分の子供たちに、平和な生活を送り、戦争を避けるよう常に言い聞かせていました」とスナリは、ラフマットの生前に語った。「イデオロギーやアイデンティティの違いによる対立はどのようなものであっても家族が分離するきっかけとなるだろう、と」


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【この記事は電子版だけではなく、2014年8月27日付け『ジャカルタ・ポスト』紙22面にも掲載された。小野さんの訃報が写真つきで大きく扱われている(写真は@ahmadhitoさん提供)】


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インドネシア共和国独立の闘士、元日本兵がバトゥ市で死去
『スアラ・プンバルアン』紙電子版(2014年8月26日)

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バトゥ発-植民地支配者オランダからのインドネシア独立を助けた元大日本(Dai Nippon)帝国軍人、サイラク・オノ・ラフマット(Sairaku Ono Rahmat, 原文ママ。以下、「小野盛」もしくは「小野」と記述)が8月25日月曜日、東ジャワ州バトゥ市の自宅で亡くなった。95歳だった。

小野は1919年9月26日北海道で父・精六と母・タミの子として生まれた。生前にインドネシア軍とともにオランダ軍を撃退したため、バトゥ市の英雄墓地に埋葬された。

バトゥ市退役軍人協会会長のH・ハンドリ・イスラワンによると、小野は生前に計8回、すなわちスカルノ大統領から2回、ジュアンダ国防大臣から6回の表彰を受けたという。【訳注】

【訳注】 表彰名詳細に関しては日本語表記不明のため翻訳では割愛。原文参照。

エル・スヨノ(小野の五男)は小野が亡くなった自宅での取材において、小野はレバランの3日前から呼吸困難を訴えていたと話した。彼は小野に治療を受けさせるために病院へ連れて行くことしかできなかったという。小野は亡くなる前に、チフスおよび心臓肥大の疑いからエティ病院とムハマディヤ病院に一時的に入院していた。

小野は日本兵として1942年にインドネシアに渡った。22歳で初めてインドネシアの地を踏んだ小野は、スラウェシ、バンドンを経て、東ジャワで任務に着いた。そして、エルはこう続けた。他の日本兵は帰国したが、小野は日本へは戻らなかった。なぜなら、小野はインドネシア軍を前にして、日本の天皇が伝えた通り、インドネシアの独立を助けるという決意を固めていたからだ。

「その確固たる誓いゆえに、父は日本への戻ることなくゲリラ戦へ身を投じました。その後、当時はまだマラン県の一部であったバトゥ出身のインドネシア人女性と結婚するに至りました。インドネシアの独立後、父はスカルノ初代インドネシア共和国大統領を非常に誇りに思っていました。しかし、最近ではこの国のエリートたちによる数々の汚職事件に大きな失望を感じており、日本へ戻りたいとこぼしていました」とエルは語った。



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訃報:ラフマット・オノ・シゲル
天皇の命令を果たし、インドネシアの独立に貢献

2014年8月25日月曜日21時01分(WIB)

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SURYA Online, BATU – 小野盛はインドネシアの対オランダ独立戦争に加わった日本兵だ。小野は1919年9月26日に北海道で生まれた。父の名は精六、母はタミという。

2014年8月25日月曜日6時頃に小野は息を引き取った。亡くなる前に、チフスと心臓肥大の疑いから、エティ病院とムハマディヤ病院で一時的に治療を受けていた。

エル・スヨノ(小野の五男)の話では、小野はレバランの3日前から呼吸困難を訴え、寝込んでいたという。エルは父親を助けるために、病院へ連れて行くことしかできなかった。

小野は自身の子供たちへ特別なメッセージは残さなかった。彼が求めたのは、亡くなった場合の英雄墓地への埋葬だけだった。小野の願いは果たされた。最後の別れとして、インドネシア国軍による葬儀が英雄墓地でとり行われた。

小野は生前に8回の表彰を受けている。そのうちの2回がスカルノ大統領からの授賞、6回がジュアンダ国防大臣から授けられた。【訳注】

【訳注】 表彰名詳細に関しては日本語表記不明のため翻訳では割愛。原文参照。

小野は1942年頃にインドネシアへ来た。当時の年齢はすでに22歳になっていたと推測される。初めてインド根際の地を踏んだ小野は、スラウェシ、バンドンを経て、東ジャワにたどり着いた。そして、最終的にバトゥ出身の女性と結婚し、同地に定住した。

エルによると、小野が他の日本兵のように日本へ帰国しなかったのは、日本の天皇が述べたように、インドネシアを独立させたいと決意していたからだという。「帰国しなかったのは、その約束を果たすためでした。しかし、独立後のインドネシアで汚職事件が繰り返されることを、父は非常に残念に思っていたようです」とエルは語った。

インドネシア社会に根付く数多くの汚職事件を目の当たりにした小野。汚職が根絶できない場合は日本への帰国も考えていたという。「父は生前そのように語っていました」とエルは話した。

小野は高い闘志と生活意欲を持ち合わせていた。インドネシアの独立に加勢した後、小野は複数の場所で働いてきた。カリマンタンや、ジャカルタでは養鶏業、スマトラでは木材関係の職に就いた。そして、1990年代以降はバトゥ市で暮らしてきた。

バトゥ市退役軍人協会会長のH・ハンドリ・イスラワンは、小野の勇敢さは手本にするべきものだと評する。「私は退役軍人協会を代表して、非常に誇りに思っています。彼は日本人でしたが、帰国という道を選ぶことはなく、逆にインドネシア軍人となったからです。命を懸けて敵軍と戦いました」

小野の独立戦争時に活躍に関して、ハンドリは戦争時を共に過ごした小野の友人たちから聞いていた。小野は最も勇敢な人物だった。片手を失ったにもかかわらず、 (マラン県の)陸軍兵器製造所でオランダ軍を倒したという。

「彼は手本とするべき人物です。日本人ではありますが、インドネシアの独立を守る戦いを支えたのですから。インドネシアの指導者が私たちを裏切ることがないよう、そして、インドネシアが今後、さらに良い国になっていくことを願っています」とハンドリは願っていた。 



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【参考文献】
林英一『残留日本兵の真実』、2007年、作品社。
林英一『東部ジャワの日本人部隊』、2009年、作品社。
林英一『残留日本兵』、2012年、中公新書。


【管理人コメント】
翻訳では【訳注】がつけきれていないので、各記事の内容に関する詳細は上記に挙げた参考文献を参照してください(特に、小野盛氏に関しては『残留日本兵の真実』を参照)。

インドネシアのネット媒体の記事を参照する限り、小野盛さんの訃報に関してそれほど目立った反応はありませんでした。特に、テンポをのぞく大手メディアの沈黙ぶりが際立っていたように思います。

ただし、『じゃかるた新聞』電子版の記事によると、東ジャワを拠点とする地元メディアは小野盛さんの訃報を紙面で写真つきで大きく扱っているとの事です。また、本文で記した通り、インドネシアの有力英字紙『ジャカルタ・ポスト』も小野さんの訃報を写真つきで大きく取り上げていました。

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