min
自宅で〝お気に入り〟のちゃんちゃんこを着る小野盛さん

2014年8月25日に亡くなったインドネシア残留日本兵の小野盛さん。先日の訃報はインドネシアでも複数のメディアが取り上げましたが、生前の小野さんに関しては現地ではどのような報道がなされていたのでしょうか。インドネシアを代表する時事週刊誌『テンポ』2011年11月28日号に小野盛さんの特集記事を見つけたのでご紹介します。

min

老いたサムライの黄昏

ラフマット・シゲル・オノ【訳注】、このインドネシア共和国を守った元日本兵は新たな故郷として東ジャワを選んだ。

【訳注】 「ラフマット・小野の日本名の本名は、『盛(さかり)』であるが、インドネシア独立軍に身を寄せた際に『しげる』と名乗った。以後、インドネシア国籍編入の申請書を提出する際も「しげる」を使用。現在でも郵便物は「しげる」で送付されてくる」(林英一『残留日本兵の真実』、13頁より引用)。

この年老いた男性の耳は遠く、目もほとんど見えない。2週間前、テンポ誌記者は東ジャワ州バトゥ市シドムルヨ村の自宅を訪ねた。その際、彼が握手のために差し出した手はあらぬ方向に向けられていた。左腕は短く、肘までしかなかった。彼はまた訪問客に大きめの声で話してくれるよう求めた。

彼の名は小野盛。1919年、日本の北海道に生を受けた。自身の人生経験、特に独立戦争(1945-49)に関するよどみのない語り口に、92歳という年齢は感じられない。小野の話はインドネシア共和国に身を捧げた日本兵の物語として、林英一のインドネシア語著作『Mereka yang Terlupakan: Memoar Rahmat Shigeru Ono(忘れ去られた者たち-ラフマット・シゲル・オノ回想録)』にまとめられている。

林は「福祉友の会」のデータを引用し、903人の元日本兵が独立戦争時にインドネシアを守ったと指摘する。うち243人が戦争で死亡、288人が行方不明、45人が日本へ帰国した。残りのおよそ36パーセントの兵士は新たな居住地としてインドネシアを選択した。

紅白旗を守ったサムライ(samurai)の物語の掘り起こしは、2004年8月に当時27歳の林が東ジャワ州マランで1か月のインドネシア語学習プログラムに参加した事に端を発する。プログラム主催者は林を誘い、マラン市中心地からおよそ20キロ離れたバトゥで暮らす老齢の日本人と引き合わせた。祖国からの訪問客と知るや、その年老いた男性はすぐに自身の身の上を母国語で語り出した。「実はあの当時、小野さんの話し方があまりにも早すぎたのでよく理解できませんでした」と林は電子メールを通じて語った。「話しは数時間にわたって続き、私が眠気を覚えたほどです」

しかし、小野が持つ大量の日記が林の興味を引いた。林は日本へ戻ると、旧漢字で書かれた日記のコピーを丹念に読み込んだ。日記には一人の兵士として日本を守り、インドネシアを守った年老いた男性の人生が詰まっていた。この物語はこれまで両国の歴史から欠け落ちていたものだった。それ以来、林は小野と会うために80回にわたって日本とインドネシアを往復し、同時に存命する他の元日本兵や亡くなった日本兵の墓を訪問した。その成果は2007年から2010年にかけて日本で出版された3冊の著作 【訳注】 にまとめられた。

【訳注】 『残留日本兵の真実』(作品社、2007年)、『東部ジャワの日本人部隊』(作品社、2009年)、いずれも林英一著。『インドネシア残留日本兵の社会史-ラフマット・小野盛自叙伝』(小野盛著、林英一編・翻刻・解説、龍渓書舎、2010年)

白内障を患った老いた目が遠くを見つめていた。小野が次々と詳細に描写する出来事のひとつひとつが、まるで映画のワンシーンのように展開された。小野の語りは日記の助けを借りて、流れるように進んでいった。インドネシアに残った日本兵を探す連合国の目を眩ますために、小野は「盛」という名前を「しげる」に変えた。1945年、彼はバンドンのインドネシア軍本部に身を連ねた際、他の残留日本兵と同様にインドネシア名を名乗った。同時にイスラム教にも入信した。司令官からはサルン、衣服、イスラム帽が贈られた。「当時は不思議な気持ちがしたものですが、私たちはインドネシア人になれたことを喜びました」と小野は2週間前の取材で語った。彼のインドネシア語の端々には日本の訛りが今も色濃く残っていた。

小野が戦争によって失ったものは左腕だけではない。親友かつ指南役であった市来龍夫をも同時に失った。市来は1906年に熊本県多良木で生まれ、1920年代からインドネシアで暮らしていた。ロシアン・アンワルが記者を務めた日刊紙『アシア・ラヤ』で編集長として勤務した事もある。独立戦争時には隊長として、小野も参加した日本人特別遊撃部隊を率いた。この部隊は元日本兵28人から構成され、オランダ軍を何度も混乱に陥れた。1949年1月3日、アブドゥル・ラフマン-市来のインドネシア名-はマランのトゥレンとワジャックの境界で、オランダ軍の銃弾に倒れた。1956年にはスカルノ大統領が東京港区の青松寺にある市来の墓に記念碑を寄贈した。石碑には「独立は一民族のものならず、全人類のものなり」というスカルノの言葉が刻まれた。

1949年12月に主権が承認され、小野に左手を失わせた戦争が終結した。小野は少尉の階級を持って軍隊を去り、幼少以来の生業である農業へと戻った。新しい住居はバトゥに定めた。ウントゥン・スロパティ十八部隊副隊長の最期の地となったパスルアンからほど近い場所だった。

小野は当時、すでに30歳代に入っていたが、今だ独身だった。友人たちは彼を結婚させようと躍起になっていた。相手に選ばれたは22歳の未亡人、ダルカシだった。夫に先立たれたばかりの彼女に子供はいなかった。小野の初めてのアプローチは断られた。「おそらく私の左腕がなかったので、生計を立てられないと思ったのでしょう」と小野は声をあげて笑った。しかし、小野は諦めることなく再びダルカシにプロポーズした。2人は1950年に結婚し、その後6人の子供、13人の孫、6人のひ孫に恵まれた。ダルカシは1982年6月に亡くなった。

小野は新たな祖国から軍人恩給を得ていたが、それはタバコ代にも不十分だった。当時の小野は日に2箱を吸う程のヘビースモーカーだった。家族を養うために、小野は義父が持つ土地に稲、野菜、果物を植えた。「両腕が健在な他の農民に負けたくありませんでした」と小野はボクシングのようにこぶしを握りしめながら話した。片手でクワを振り続けたせいか、生まれつきのものなのかは分からない。しかし、小野の腕の骨は大半の人間よりも太く見えた。

農民となってから15年。彼はジャカルタで一旗揚げるべく、日本企業に職を得た。ジャカルタでは、1970年に瀕死の重傷を負った。小野は当時、ホテル・インドネシアから出ると、包装済の箱に入った靴を抱えてベチャに乗り込んだ。ベチャがM.H.タムリン通りのサリナデパートに差し掛かったところで強盗に襲われた。腹部を滅多刺しにされ、現金が入ってると勘違いされた荷物を奪われた。血が溢れだし、内臓が見えていた。幸運にも、周りにいた人々が小野を素早く病院へ搬送した。「今も生きているのは本当に奇跡のようなものです」と小野は語った。

同じ年、小野は南カリマンタンのアムンタイに移り、籐製品の生産と日本への輸出に携わった。【訳注】 10年後に退職すると、その後はバトゥで再び農業を営んだ。ここ数年は体が弱り、クワを満足に振るう事はできなくなった。そのため、大統領宮殿で開催されるインドネシア独立記念式典には1982年から毎年出席してきたが、招待を辞退した。パピ(おとうちゃん)と呼ばれる小野は、時折あわただしくリンゴ園を見回るが、より多くの時間をテレビを見て-正確には、聞いてであるが-過ごした。日本のNHK放送がお気に入りだった。しかし、そうした状態でもラマダンの断食にはきちんと取り組んでいた。子供たちはサフールの時間に小野を起こし忘れると、よく怒られていたという。

【訳注】1979年フジ・インターナショナル社のバンジャルマシン駐在員となり、1984年5月まで南部カリマンタンの籐輸入業務の出張所所長として勤務する。籐製品の生産と輸出にも携わる。

小野は70年余りをジャワの地で過ごしてきたが、日本の精神が色あせることはなかった。彼は日本の国歌である君が代(Kimigayo)を間違えることなく歌い上げた。訪問客があれば-ジャケット型をした着物の一種である-ちゃんちゃんこ(chanchanko)を身に着けて出迎えることが多かった。また、日出づる国で愛される野菜、大根を好んで食べていた。

畑仕事をしていた当時、この野菜は売り物にはならず、家族にも不評であることは分かっていた。しかし、小野は自分で食べるために、日本語で大根(daikon)と呼ばれるその野菜を欠かさずに植え続けた。大根の他には、梅干し-酸味を持った梅の実の塩漬けがお気に入りだった。

「現在のインドネシアは好きになれません。汚職がますます増え続けているからです」と過去にスカルノ大統領から退役軍人勲章およびゲリラ勲章を授与された小野は語った。小野が咳き込むと会話はしばし中断された。彼はお気に入りの飲み物であるミルクコーヒーに口をつけた。これはどの訪問客にも必ず振る舞われる定番のメニューでもある。そして、小野は再びまくし立てるように話し続けた。汚職はいつになれば撲滅されるのかと尋ねたかと思えば、小学生に対する反汚職教育の重要性に関して熱弁をふるった。

小野はふと思い起こした。自分はあの時なぜ日本行の船に乗り込まなかったのか。それは日本がインドネシアを独立させるという約束を果たすためだという。「これは独立宣言の主旨にはそぐわないものですが」。そう言うと、小野の目は再び遠くを見つめた。

★ ★ ★ ★ ★

min

黒いペチ帽をかぶった日本兵

第2次世界大戦終結後、およそ1000人の日本兵が祖国への帰還を拒否した。彼らは対オランダ独立戦争でインドネシアを支えた。

1945年8月15日、バンドン。小野にとって人生の転機となった場所だ。当時軍曹の階級にあった小野は他の日本兵らと軍用のバラックに集まり、ひとつの極めて重要な問題について話し合いを持った。原子爆弾が投下され、広島の陸軍基地と長崎の海軍基地が壊滅状態に陥ったのだ。こうした事態を受けて、大東亜戦争における彼ら日本兵の立場はさらに追い詰められていった。

【訳注】(小野は)「1941年12月の第二次世界大戦勃発とともに陸軍教導学校を卒業。陸軍伍長に進級して、翌42年2月(あるいは4月)に、南方総軍補充要員として、インドネシアに出征することになったのだ。途中サイゴン、シンガポールを経て、インドネシア上陸を果たした小野青年は、ジャワ島西部に位置するバンドゥン防衛第百五十二大隊第一中分隊長として現地の治安維持の任務に当たった」。また小野は自身の回想録に(第二次世界大戦開戦直後は日本国内は沸き立っており、続々と連戦のニュースが届けられていた)「この時点で、大本営は各師団に対して南方軍への志願を要請して来ました。私は未だ見ぬ南方へのあこがれもあり、志願して南方軍補充要員として南方へ向かうことを許可された」と記している。(林英一『残留日本兵の真実』、40頁)。小野はこのまま終戦をバンドンで迎えている。

林英一のインドネシア語著作『忘れ去られた者たち-ラフマット・シゲル・オノ回想録(Mereka yang Terlupakan: Memoar Rahmat Shigeru Ono)』は裕仁天皇による無条件降伏の発表を聞いた日本兵たちの戸惑いを、続けて以下のように描写する。

誰もが打ちひしがれていた。ましてや、朝鮮半島出身の兵士たちがすぐさま反旗を翻す姿を目の当たりにした後だった。【訳注】 任務の失敗に対する英雄的な最期としてハラキリを行おうと考えたことある。しかし、シゲル・オノは最終的に自らを現在の世界に導いた道を選択した。

【訳注】「終戦後も私の班で夜の点呼時に私が或る事で注意した事が気に食わず、一人の朝鮮人が『何を言うのだ。我々は今日本人の指示は受けぬ』と言うと腰の短剣を抜いて突きかかって来たことがありました。当時は私も終戦で気が立っていた時で『何を!』とばかりに組み付いてきた相手と揉み合い、上になり下になりして争っていましたが、其の時、仲間の朝鮮人が『ヤレヤレ!』とはやし立てる一方で、日本兵達は仲裁に入るまでもなく、ただ黙っているのみでした。どうやら終戦になったので身も心もしょげている様でした」(小野の回想録より。『残留日本兵の真実』、62頁)

小野は決意を固めると、日本へ帰国する兵士に自らの髪と爪、そして家族宛ての手紙を入れた封筒を託した。手紙には小野の戦死を伝える内容が記されていた。ここで『忘れ去られた者たち-ラフマット・シゲル・オノ回想録』の読者は、こう感じることだろう。過去のシゲル・オノはすでに死に、今あるのは新たなシゲル・オノだけだ、と。日本軍の軍服を脱ぎ去ると、オノ-新たな名としてラフマットと呼ばれていた-はサルンとイスラム帽を身に着けた。そして、バンドン憲兵隊長スゴノの部隊で独立を求める他の青年らとともに戦いに参加した。

【訳注】(インドネシア共和国軍兵士となった小野は)「その後、早速スゴノ隊長と明日からの任務について協議をし、まずは付近の青年を集めて軍事教練を施すこととなった。すでにこのとき『教練初期に普通行なう各基本教練ではなく、直接戦闘するための攻撃に必要なものを教えてくれ』との申し出がスゴノ隊長よりあった。ラフマットもこれに同感で、ゲリラ戦法を教えることで合意がなされていた」。しかし、日本軍離脱から2日目に英印軍のジープが走り去っていくのを見た小野ら3名の元日本兵は身の危険を感じ、その夜のうちにバンドンからジョクジャカルタ憲兵本部への転属が決定した。ジョクジャカルタの総軍司令部では、後に小野も参加する東ジャワ日本人遊撃特別部隊を結成した市来龍夫との出会いがあった。(『残留日本兵の真実』、103-104頁) 

この本にはひとりの人物が生き抜いた、太平洋戦争(1942‐1945)および独立戦争(1945‐1949)という2つの異なる状況下における人生が描かれている。北海道出身の農家の息子であったシゲル・オノは陸軍学校を卒業し、南方地域への派遣に志願した。そして、次第にこの巨大な戦いに関わっていった。彼はサイゴンとシンガポールでの戦いを経て、オランダ軍を壊滅させるためにジャワ島西部で任務にあたった。【訳注】 1945年に太平洋戦争が終結すると、小野は仲間の日本兵数名と日本人特別遊撃部隊に参加し、スメル山のふもとでオランダ兵にとっての脅威となった。

【訳注】小野は当時の様子を「サイゴンは既に占領久しく平和になっているようでした」「シンガポールは陥落後間もないが、市中は穏やかな様子でした」と自身の日記に記している。その後、南方補充要員としてインドネシアのジャワ島西部バンドンで警備に当たったが、現地では「普段は演習及び巡察に力を入れてい」たという。(『残留日本兵の真実』、42‐45頁)

歴史家のアスフィ・ワルマン・アダムは同回想録の序文において、シゲル・オノに代表される日本兵を残留日本兵(zanryu nihon hei)、すなわち裏側に生きた兵士と位置付ける。換言すれば、彼は日本軍の一員であったのだ。おそらくこれが理由なのだろう。小野の証言には現在のインドネシア-日本関係における不愉快な出来事、すなわち憲兵隊(kempetai)の残虐さ、従軍慰安婦(jugun ianfu)の長きにわたる苦しみ、労務者(romusha)に対する筆舌に尽くしがたい搾取などは含まれていない。

【訳注】憲兵隊:「当時、ジャワの第十六軍憲兵隊は首都ジャカルタに憲兵隊本部を置き、30人の将校以下、約500人の憲兵が全島の軍事・行政・司法の三警察権を独占して、『憲兵は法律なり』と言われるほどの絶大な権限をもって君臨していた。占領地あるいは戦地における憲兵は、作戦要務令により『通信および言論機関の取り締まり』、『酒保および用達商人等従属者の監視』といった任務が与えられていた。そのため『憲兵隊が逮捕しようと思えば、軍人、軍属はもちろん、民間人でも現地人でも自由自在』であり、『蛇蝎のごとく忌み嫌われ、恐れられる存在』で、『ケンペイタイ』という名前は、インドネシアの住民の間で悪い意味を持ち、その名を聞くだけで背筋がぞっとしたという」(林英一『東部ジャワの日本人部隊、125‐126頁』 

【訳注】従軍慰安婦:この問題が表面化した1992‐93年にかけてのインドネシア側の対応に関しては、後藤乾一『近代日本と東南アジア-南進の「衝撃」と「遺産」』、1995年、岩波書店(第5章「インドネシアにおける『従軍慰安婦』問題の政治社会学」)を参照。

【訳注】労務者:インドネシアの歴史教科書にも労務者に関する記述は必ずみられる。例えば、以下のインドネシア中学歴史教科書の翻訳などを参照。★インドネシア中学歴史教科書-第21章 インドネシアにおける日本の占領」

残留日本兵(zanryu nihon hei)としてオランダを打倒した小野とその仲間たちの尽力は当然ながら歓迎すべきものだろう。しかし、それでもなお『忘れ去られた者たち』は、常に著者および登場人物の主観に包まれた回想録であると言える。どのような出来事を書くべきか、その選定に関しては両者が権利を持つ。しかし、いち作家の信頼性は問題を捉える際の客観性の上に成り立つものであることを忘れてはならない。

★ ★ ★ ★ ★

【参考文献】
林英一『残留日本兵の真実』、2007年、作品社。
林英一『東部ジャワの日本人部隊』、2009年、作品社。
林英一『残留日本兵』、2012年、中公新書。


【管理人コメント】
このテンポ誌の記事を知ったのは、林英一さんが2012年に出版した『残留日本兵』(中公新書)を読んだことがきっかけでした。残留日本兵をテーマに学部在学中から旺盛な執筆活動を続ける若き俊英、林さんは同新書のあとがきで次のように記しています。

「昨年、筆者が残留日本兵についての伝記をインドネシア語で刊行したところ、インドネシアでもっとも影響力のある時事週刊誌『テンポ』に記事が掲載されるなど、現地で大きな反響が起こった」(241頁)

そこで見つけてきたのが、今回のエントリーで紹介したテンポ誌の3ページにわたる特集です。小野盛さんの半生とともに、林英一さんのインドネシア語著作『忘れ去られた者たち-ラフマット・シゲル・オノ回想録(Mereka yang Terlupakan: Memoar Rahmat Shigeru Ono)』に関する書評が掲載されていました。

ただ、残念ながら、インドネシア語の本は日本ではなかなか手に入りません。このエントリーを読んで林英一さんのインドネシア語著作、もしくはインドネシアにおける残留日本兵に関して興味を持たれた方は、上記の参考文献でも挙げましたが、まずは林英一さんが日本語で著した『残留日本兵の真実』(2007年、作品社)を一読されることをオススメします(その上で『東部ジャワの日本人部隊』もぜひ)。昨今の日本では一様に「英雄譚」として語られる傾向にあるインドネシア残留日本兵の「等身大」の姿が見えてくるはずです。


【関連記事】
「最後の残留日本兵、小野盛さん死去」に関するインドネシア現地報道まとめ