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テンポ誌1992年7月25日号表紙(左)と同8月8日号特集(右)

今回のエントリーではインドネシアを代表する時事週刊誌「テンポ(Tempo)」が1992年に報じた「従軍慰安婦」特集を紹介します。この問題がインドネシアで注目を集めるようになった当初に、テンポ誌がインドネシアの各地方および海外支局の総力を挙げてまとめたものです。テンポ誌独自の取材に基づき、インドネシア人「慰安婦」や慰安所の関係者などの豊富な証言から記事が構成されています。

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インドネシアで「従軍慰安婦」に対する関心が高まり始めたのは、日本政府がこの問題において軍部の関与を公的に認めた1992年7月以降のことです(強制性については否定)。そして、日本政府はこの直後、「従軍慰安婦」の中にインドネシア人女性も含まれていた件に関して在ジャカルタ日本国大使館を通じて、インドネシア政府へ謝意を表明しました。こうした日本政府の対応に前後して、インドネシアの国内メディアは「慰安婦」問題の報道を開始。テンポ誌も同年7月25日号および8月8日号の2回にわたって計20ページを超える特集を組みました。これが今回紹介する「慰安婦」特集記事です。

この特集が発表された当時、インドネシア国内ではまだ「従軍慰安婦」の登録作業が行われておらず、テンポ誌は各地方支局のネットワークを通じた独自の取材で全国各地に散らばる元「慰安婦」およびその関係者を探し出しています。そうして得られた証言の数々はいわばインドネシアにおける「慰安婦」問題の最初期の反応と呼べるものです。20年前の記事ではありますが、テンポ誌の取材がなければおそらく日の目を見ることがなかったであろう「現地の声」にまずは耳を傾けてみてください。

特集:Jugun Ianfu(従軍慰安婦)巻頭言
テンポ誌1992年7月25日号

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※訳注:以下の文章では「従軍慰安婦」に対応する用語として基本的に「jugun ianfu」という日本語がイタリックでそのまま使われている。「慰安婦」を意味する「wanita penghibur」(もしくは、この記事では「penghuni bordil」)というインドネシア語が使われる場合もあるが頻度はさほど多くはない。

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平時の売春と戦時期の売春に違いはあるのだろうか。この問題は現在盛り上がりを見せているが、日本軍によって強制的に慰安婦にされた朝鮮、中国、台湾、インドネシア人女性らに関して言えば、おそらく単に規模の違いだろう。

大東亜戦争期において、数千人の日本兵たちが至る所に押しかけた際には数千人の慰安婦も必要とされた。しかし、女性たちを探し出す当事者の「手順」は平時の売春にまつわる経験談とさほど大きな違いはない。脅し、例えば、借金のかたや武器の使用といった強制に加え、仕事を与えると騙す場合もあった-平時でも戦時期でも人は働かなければならない。

一方で、自発的に、という場合もあり得るが、実際のところ強制、詐欺、その他の-例えば、スパイになるといった-理由以外で売春の世界に身を投じる者はいるのだろうか。当然、「楽しみ」を見出す者は存在する事だろう。しかし、そうした者たちの数はごくごくわずかであり、特定の病気を患う者が含まれる場合もあるはずだ。

したがって、日本政府による、それらの女性が強制されて従軍慰安婦になったという証拠はまだ見つかっていない-志願した者が多かった-という弁明は受け入れ難い。日本軍は権力、武器、戦争の緊張ゆえの性的欲求、その全てを備えていたのではないのか。「私たちは日本軍に見られるだけで怯えていました。お金を求めるなどできる訳がありません」とソロの日本兵用歓楽街ホテルの元従業員は話している。

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だからこそ、デン・ハーグのオランダ国立公文書館の資料が重要なものとなる。この資料には従軍慰安婦の募集に関わった日本人中将の証言に加え、オランダ人慰安婦たちの体験が記録されている。資料を読む限りでは、それらオランダ人女性全員が強制的に慰安婦にさせられたと容易に結論付けられる。

もちろん この資料が完全に正しいものであるかは現時点では定かではない。それは朝鮮・韓国人女性たちの証言に関しても同様だ。行為を拒否したり、その場から逃げ出そうとした慰安婦はおぞましい方法で罰せられたという彼女たちの証言は、正しい場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。しかし、それは同時に、強制性を示す証拠はなかったと公表する前に、日本政府が熟慮して然るべき事実でもある。また、日本は韓国および他のアジア地域の国々に対する戦時賠償の支払いには全てが包括されるとしているが、今回発見された新たな証拠を踏まえてもなお妥当なものと言えるのか、その判断材料ともなるだろう。

それら資料、特にオランダで発見された公文書と、上記で言及した判断が今回の特集の中核を占めている。オランダの資料はテンポ誌ヒルフェルスム支局記者のアスバリ・ヌル・パトリア・クリスナ(Asbari Nur Patria Krisna)が確認し、今回の特集第三部で紹介した。

一方で、特集の第1部と第2部および囲み記事の大部分はテンポ誌東京支局記者の大川誠一による調査とインタビューに基づく。同記事では日本政府がこの問題を避けて通れなくなった状況とインドネシア人従軍慰安婦について言及した。

中でもオランダの公文書資料に関しては、強制性に関する有力な証拠となり得るだけではなく、実のところ別の側面をも提示している。オランダ人女性のみを集めた慰安所はわずか一か月しか続かなかったが、これは慰安所の存在が東京の陸軍司令部に早々と知れるところとなり、すぐさま調査が行われた結果、同慰安所の閉鎖が決定されたためだ。この件に関して当時の日本軍の対応を一様に語るのは誤りともいえる。日本の指導者なかには、非常に恥ずべき行為という宮沢首相の談話に否定的な者も存在する。


★ ★ 『テンポ』誌「従軍慰安婦」特集目次まとめ ★ ★

1992年7月2日号 特集「Jugun Ianfu」

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★特集「Jugun Ianfu」巻頭言(上記翻訳参照)


自国兵士向けの慰安所の設置に関する旧日本軍の関与が、今回新たに発見された127の公文書によって最終的に証明された。6名の韓国人元慰安婦たちはすでに賠償請求を申し立てている。

韓国人女性たちがついに歴史を正した。加藤紘一官房長官は第二次世界大戦時に日本兵のために慰安婦を調達した件に関して、日本軍の関与を認めた。しかし、加藤は依然として日本の面子を保とうとしている...【続きを読む】


韓国・北朝鮮の事例

もし仮に三人の韓国人女性が昨年12月上旬、自身の身の上を包み隠さずに語ることがなければ、おそらく日本軍による従軍慰安婦の事件が暴かれることはなかっただろう。彼女たちは恥の意識から、公表まで45年もの歳月を待たねばならなかった。身寄りがなくなったことで、ようやく意を決して自身の運命を語るに至ったのだ...【続きを読む】



韓国・朝鮮人女性だけではない。日本政府はようやく、太平洋戦争時に日本軍が設置した慰安所に朝鮮半島、中国、そしてインドネシア出身の女性がいたことを認めた。

インドネシア人従軍慰安婦の存在は日本政府が公開した資料127点のうち4点に明記されている。うち2点は防衛庁に、残り2点は厚生省に保管されていた。「それらは元日本兵の間では公然の秘密となっていた」とある外務省高官は語った。

しかし、それは日本兵のみの秘密ではなかった...【続きを読む】



「スマラン事件」の概要およびオランダ国立公文書館で発見された能崎清次中将の尋問調書の要約。能崎中将の事件当時の階級は陸軍少将、所属は南方軍幹部候補生学校校長兼駐屯地(スマラン州)司令官...【続きを読む】

<スマラン事件:1944年2月にインドネシア・ジャワ島中部スマランで発生した日本軍によるオランダ人女性の強制連行およびが民間人抑留所に収容されていたオランダ人女性35名を強制的に慰安所へ連行し、売春行為を行わせた事件。戦後、オランダ軍による軍事裁判で慰安所開設や女性の連行に関わった日本の軍人および民間人の慰安所経営者ら13名が強制売春、強姦などの罪で裁かれた>


以下は、ジャワ島で日本軍によって強制的に売春婦とされたオランダ人女性たちの証言を記録したオランダ公文書館の資料からの引用である。資料では全ての女性の名前に黒塗りが施され、読むことできなかった。

アンバラワ第6抑留所に収容された被害者の証言。1944年2月23日、4人の日本兵が収容所を訪れた...【続きを読む】


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1992年8月8日号特集「竹の家からの叫び声」

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特集の1ページ目(上記画像左)は「テンポ誌地方支局の記者たちが各地方で元従軍慰安婦の存在をつきとめるべく奮闘した」という文章に続いて、取材地域および取材にあたった記者の名前が記されている。記載された地域名はウジュンパンダン、マナド、中部ジャワ、スラバヤ、バリ、パレンバン、メダン、東カリマンタン、トラジャとなっている(記者名は割愛)。

バンカ島パンカルピナンのある家では70歳の老婦人が日がな賭博に興じていた。彼女に言わせれば、それが過去を忘れる何よりの方法だという。それから50年の月日が過ぎた現在でも、当時の記憶は彼女の重荷となっている。

彼女には韓国人女性のように集団で日本政府に抗議し、賠償を求める意思はない。彼女は当時を語り得る証人のひとりであるが、日本軍が専用の慰安婦とするべく少女や成人女性を探し求めたという、彼らの残虐さについては沈黙を守ってきた。そんな彼女から当時の話を聞き出すことは容易ではなかった。彼女は過去を忘れた訳ではない。その全てを、子孫を辱しめる過去すべてをなぜ話す必要があるのか、それが分からなかったのだ。最終的には自身の体験を語ってくれたが、その際、誌面では本名を出さないようにと伝えられた...【続きを読む】
 


もし仮に前述の、強制的に従軍慰安婦にさせられたというフミコの証言に確信が持てないとすれば、以下に ある日本人将校の証言を引用してみたい。彼の名は禾(のぎ)晴道。現在71歳、大阪に暮らしている。大東亜戦争期に中尉としてインドネシア東部地域に着任した。1975年には225ページの手記『海軍特別警察隊』を出版した。本文は当然 日本語で書かれているが、その著書には「慰安婦狩り」と題された13ページにわたる章がある...【続きを読む】


インドネシア人「慰安婦」、慰安所従業員、残留日本兵らの証言

マナドから15キロ離れた町トモハンの住人2人がミナハサ出身の少女たちが苦しむ姿を目撃していた。証人となったのは現在72歳で農業を営むウルバヌス・タウルス(Urbanus Taulus)と元ミナハサ県知事のアレックス・レレンボト(Alex Lelengboto)だ。慰安所の従業員として働いていた彼らは、当時の様子を様子を話してくれた。

「日本軍がトモハンへ進駐後、程なくしてミナハサの村々で少女たちが彼らに連れていかれました。大抵は裁縫の学校へ通わせるという約束で説得したようです。記憶に違いがなければ、20歳以下のおよそ100人の女性が集められました。日本はカカスカセン村でおよそ10軒の民家を立ち退かせました。その場所に説得を受けた村の女性たちが入れられたのです。やがて、それらの家の周りは塀で囲まれました。隙間がなく高い塀でした。厳重な警戒が敷かれていました。日本兵たちがその場所を『yanjuk(慰安所の意)』」と呼ぶのを耳にしました。この「yanjuk」の責任者はドイツ人女性を妻に持った ある日本人将校でした。日本軍はマナドのマハクレット(Mahakeret)でも『yanjuk』を運営していました」...【続きを読む】



彼女たちの運命は慰安婦ほど劣悪なものではなかったが、強制的に受け入れざるを得なかった。広島と長崎に投下された原爆によって、彼女たちと日本の「夫たち」との関係は終わりを迎えた。その中には自身の子供がその後、日本で父親に会う機会に恵まれた者もいるという。

「ハラダ(Harada)は自分自身のために私のなにもかもを欲しがりました。農場を訪れる者たちが私の存在に気が付くことはありませんでした。農場に来客があったとしても、私は姿を見せることを禁じられていたからです...【続きを読む】

【参考文献】
倉沢愛子「いまだ癒されぬ戦争の傷跡」『戦後日本=インドネシア関係史』草思社、2011年、331-353頁(倉沢愛子「インドネシアにおける慰安婦調査報告(PDF)」をベースにしたもの)。
後藤乾一「インドネシアにおける『従軍慰安婦』の政治学」『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、209-245頁。
禾晴道「慰安婦狩り」『海軍特別警察隊‐アンボン島BC級戦犯の手記』大平出版、1975年、109-121頁。
 吉見義明「オランダ人慰安婦問題-スマラン慰安所事件の顛末」『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、175-192頁。
バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」(須磨明筆耕・注、PDF)

【管理人コメント】
1992年のインドネシアでは「従軍慰安婦」問題はどのように報じられていたのか。そして、インドネシア人の元「慰安婦」たちは自らの過去をどのように振り返ったのか。こうした点を紹介したいという思いから今回のエントリーを思い立ちました。20年以上前の特集であるという点を念頭に置いた上でご一読いただければ幸いです。

なお、インドネシアにおける「従軍慰安婦」問題の経緯に関しては上記の参考文献で挙げた倉沢愛子氏の著作もしくは調査報告を参照してください。1992年7月以降、インドネシアでも「慰安婦問題」が盛り上がりを見せ始めた当初のインドネシア政府及び国内メディアの反応については後藤乾一氏の著作に詳しいです。


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