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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年7月25日)「始まりは韓国(Pada Mulanya dari Korea)」の翻訳です。内容は「慰安婦」とされた韓国・北朝鮮人女性の事例について。1992年当時のインドネシアの報道をご紹介します。

始まりは韓国
テンポ誌(1992年7月25日号)

もし仮に三人の韓国人女性が昨年12月上旬、自身の身の上を包み隠さずに語ることがなければ、おそらく日本軍による従軍慰安婦の事件が暴かれることはなかっただろう。彼女たちは恥の意識から、公表まで45年もの歳月を待たねばならなかった。身寄りがなくなったことで、ようやく意を決して自身の運命を語るに至ったのだ。

大東亜戦争やそれ以前の歴史において、朝鮮半島はおそらく日本による最も残虐な行為を受けてきた地域だろう。従軍慰安婦はこの地で初めて設置された。慰安婦とされた女性は他の地域と比較しても朝鮮半島出身者が最も多い。日本は中国を支配する足掛かりとして朝鮮半島を占領し、第2次世界大戦に備えて最も強大な軍事力を同地に結集させた。

日本軍の公式文書では慰安婦女性たちの正式名称は挺身隊となっている。この公文書の存在は加藤紘一官房長官が先週認めたものだ。韓国の歴史家らは、およそ20万人の朝鮮半島出身女性が日本軍の性奴隷とされたと推定する。北朝鮮の国営通信社は、同国内には過去に日本軍の性奴隷とされた現在70歳から80歳になる複数の女性が存命中であると伝えている。

同通信社によれば、当時は残虐な行為が頻発していたという。日本兵の欲求を満たすことを拒否した場合、その女性には首と四肢をそれぞれ紐で結び、その紐を5頭の馬が異なる方向に向かって引っ張るといった罰が加えられた。加えて、性病への感染が判明した慰安婦は生きたまま焼かれるか、手榴弾で爆破されたという。女性らは中国、東南アジアばかりか、第2次世界大戦時に日本軍最大の基地のひとつがあったパプア・ニューギニアのラバウルまで連れて行かれた。

北朝鮮出身の老婦Li Gyong-saengは自らの身の上を同通信社に語っている。彼女の話では、日本の警察が当時12歳だった彼女を迎えに来ると、その後慰安所へ送り込まれたという。彼女とその他の少女たちはその場所に相応しい働きを約束させられた。Gyong-saengは自身を誘拐し騙した人物を今も覚えており、その人物が今も生きていると信じている。

別の犠牲者であるLi Bok-nyo(72歳)は23歳の時に強制的に売春婦とされ、中国とソ連の国境付近にある軍監視所に配置されたという。「日中は30から35人の日本兵が私たちを強姦しました。夜になるとどの女性も5人から10人の将校への奉仕を強制されました」とBok-nyoは語った。股間部分の古傷を見せながら、彼女は日本軍が女性たちの逃亡を防ぐためにどのようにして焼いた鉄を押し付けたかを説明した。Bok-nyoの証言によれば、彼女はこの世の地獄から生き延びた5人のうちのひとりであり、その他の15人はすでに亡くなっているという。彼女たちの大半は奉仕を拒否した事を理由に、銃剣で刺されたり、ライフルの銃床で殴られるなどの拷問を受けていた。

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日本軍の犠牲となったとして韓国でデモを行う人々
2千万円の補償金を求める
 
韓国はおそらく最も攻撃的な姿勢を見せている。加えて、慰安婦問題はすでに韓国と日本の関係にも影響を与えるセンシティブな問題となっている。日本占領の犠牲になったと語る韓国人は、その残虐性を暴くだけではなく、それに伴う補償も要求している。韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の会員1万5千人を代表して35人が昨年12月に東京へ向かった。そして、今年6月には4人の韓国人女性が東京地方裁判所に姿を見せた。彼女らは第2次世界大戦時に強制的に売春婦にさせられたと証言した上で、日本政府に対して補償金の支払いを求めている。請求する額は各々に2百万円(およそ3億2千万ルピア)とされた。複数の韓国人女性がソウルの日本大使館前でデモを行い、その要求を支援した。

証言を行なった4人の女性のひとりがキミコ・カネダ(Kimiko Kaneda)だ。この名前は当時、日本軍によって与えられたものだという。現在70歳のカネダはこう語る。「私は中国へ連れて行かれ、数えきれないほどの日本兵への奉仕を強制されました。当時わたしは17歳でした。私は病気にかかり、子宮を手術しなければなりませんでした。そのため私はもう子供を授かることはできません。私には家族もおらず、それ以来、笑うこともできなくなりました。毎日のように涙を流すだけです。仮に日本政府に国土のすべてを差し出す用意があったとしても、私の青春は2度と戻ってはこないのです」

日本政府が従軍慰安婦に関して日本軍の関与を認める以前には、補償金の要求は全て拒否されてきた。理由は日本政府の責任ではないというものだった。あるのは謝罪の言葉のみだった。例えば、1990年、韓国の盧泰愚大統領が東京を訪れた際、明仁天皇が悲しげな口調で「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と述べている。今年上旬には宮沢首相が訪韓したが、その際は単に遺憾の意を伝えるのみだった。

日本政府は現在、補償金を支払う用意があると表明しているが、実施までには長い時間がかかるとされる。45年以上前の出来事の証明は決して容易なことでない。

【管理人コメント】
1992年にテンポ誌が行なった「従軍慰安婦」特集まとめの一環として翻訳しました。本文では「従軍慰安婦」と「挺身隊」との混同などが見られますが、あくまで1992年7月時点の内容です。インドネシアの事例に関しては下記の関連記事を参照してください。

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