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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年7月25日)「スマランからの証言(Pengakuan dari Semarang)」の翻訳です。スマラン事件で強制的に「慰安婦」とされたオランダ人女性の証言を紹介しています。

<スマラン事件:1944年2月にインドネシア・ジャワ島中部スマランで発生した日本軍によるオランダ人女性の強制連行およびが民間人抑留所に収容されていたオランダ人女性35名を強制的に慰安所へ連行し、売春行為を行わせた事件。戦後、オランダ軍による軍事裁判で慰安所開設や女性の連行に関わった日本の軍人および民間人の慰安所経営者ら13名が強制売春、強姦などの罪で裁かれた>

スマランからの証言

以下は、ジャワ島で日本軍によって強制的に売春婦とされたオランダ人女性たちの証言を記録したオランダ公文書館の資料からの引用である。資料では全ての女性の名前に黒塗りが施され、読むことできなかった。

アンバラワ第6抑留所に収容された被害者の証言。1944年2月23日、4人の日本兵が収容所を訪れた。彼らは収容所の事務所に帽子と武器を置くと、レストランの給仕を選ぶために女性拘留者たちをひとりずつ呼び出した。

そして、10人の女性が選ばれた。翌日、彼らは再びやって来た。今度は昨日選んだ女性たちを乗せるために、古いバスを用意していた。10人の女性たちは外に連れ出され、彼女たちをスマランのカナリーラーン(Kanarilaan)-現在のクナリ(Kenari)通り-まで運ぶバスの上に投げ出された。目的地に着くと、ある少佐が待ち受けており、女性たちに日本語で書かれた紙を配っていた。その紙に署名せよとのことだったが、日本語で書かれていたため、彼女たちには内容が全く分からなかった。

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日本の抑留所に収容されたオランダ人女性たち

次いで、彼女たちは2つのグループに分けられた。ひとつは6人のグループで、双葉荘に連れて行かれた。双葉荘は売春宿のひとつで、その場所からさほど離れていなかった。女性たちにはそれぞれ個別の部屋があてがわれた。

悲劇の始まりだった。その青い目をした女性はブロンドの髪を理由に多くの日本人将校に好まれたと、自身の経験を語った。初日、ある日本人将校が彼女をすぐさま部屋の中に引っ張り込んだ。酒に酔った状態で、この将校は女性のブロンドの髪を繰り返し撫でまわした。しかし、しばらくすると撫でる手つきが次第に乱暴になり、髪を鷲掴みにされた。そして、将校は女性をベッドに押し倒した。

一人目の将校が事を済ませると、彼女はすでに部屋の入り口に並んでいた5人の将校への奉仕を余儀なくされた。後はその繰り返しだった。通気口もなければ、排水溝もないムッとして息が詰まるような慰安所での日々が過ぎていった。慰安所の中は収容所と似ており、彼女にできることは多くはなかった。彼女にできたのはベッドに横たわる事だったといえるだろう。一か月後、彼女は精神に異常をきたし、スマランの精神病院へ搬送された。

もうひとつのグループに分けられた女性たちはスマランの将校クラブへ連れて行かれた。そのうちの一人が、将校クラブに着いた初日に4人の相手をさせられ、どれほど疲れ切ったかを話した。彼女は5人目の将校への奉仕を拒否した。慰安所の管理者-日本人-はそれを耳にするや猛然と怒り、彼女を殴りつけながら、日本軍司令部近くの慰安所に送り込むと脅迫した。「身の程をわきまえろ。そこに行けば15人の兵士にやられるぞ」と慰安所の管理者は話した。これを聞いた女性はヒステリーを起こし、気を失ったと証言している。彼女は10日間隔離され、回復するとまた、奉仕を強制された。

別の記録では、スマランのハルマヘラ収容所から連れ出されたオランダ人女性の証言がある。彼女は他の7人の女性とチャンディ・バル地区の日本の事務所に連れて行かれた。ここでも女性たちは日本語で書かれた内容の分からない書類に署名しなければならなかった。彼女はこの場所から、日の丸という慰安所へ連れて行かれた。この慰安所はスマラン市内、パビリオンホテル(Hotel du Pavillon)の裏手に位置していた。

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能崎清次中将の尋問調書

一人目の客は日本の民間人だった。この客はすぐさま女性の髪を掴むと、殴るなど手荒に扱った。長旅と客の手荒な扱いに疲れ果てた女性は月経中であったため悲鳴を上げた。客はお構いなしだった。そして、女性は強姦された。彼女はそれから、軍人や民間人を問わず、1日に5人の客に奉仕しなければならなかった。どうやら彼女は肉体的に精神的にも十分に強かったようだ。1か月後に慰安所が閉鎖された時、気が狂ったり、肉体的な苦痛を感じていた仲間たちがいる中で、彼女は健康な部類に含まれた。

中部ジャワの各慰安所にいた100人のオランダ人女性、これにはスマランの4つの慰安所にいた35人も含まれているが、このうちはたして何人が精神障害に苦しんだのかは定かではない。アンバラワ第4収容所から連れ出された証人によれば、2人のオランダ人女性が慰安所からの脱走を図ったとして拷問にかけられ、全身が血まみれになっていた。別のある女性はマラリアの薬を大量に飲んで自殺を図ったという。

慰安所の女性たちが収容所のみから連れて来られた訳ではない。以下はバタビアで家族と暮らしていたあるオランダ人少女の証言である。1944年4月のある日、当時18歳だった彼女は現地の警察署から呼び出しを受けた。そこでは自身と19歳の姉の名前を登録するように求められた。警察署にはすでにヨーロッパ人、中国、ジャワなどからおよそ20歳ほどの女性たちが集まっていた。

そして、マレー語が流暢な日本人が、伝染病を理由に彼女たちを検査すると説明した。しかし、全員ではなく、証言者を含めた20人が選ばれ、その場に残るように伝えらえた。「私たちには50円が渡されましたが、断りました。家に帰りたかったからです」と彼女は話した。

しかし、帰ろうとする努力は無駄だった。彼女たちはその日のうちに電車に乗せられ、強制的にスラバヤまで連れて行かれた。その翌日、彼女は再び西の方向、すなわちスマランへ連れていかれた。しかし、この時は船に乗って海路を通じてであった。なぜこのように複雑な経路をたどるのかは彼女には分からなかった。

このスマランで彼女の苦しみが始まった。他の17名の少女とともに、彼女は日本人将校に奉仕するため「Hotel Splendid」に配属された。そこでは奇妙な行為を行なう日本人将校がいた。例えば、自身が医者だと話すある日本人将校は彼女の女性器に異物を入れて出血させたことがあったという。スマランに数週間滞在すると、彼女は再びスラバヤに連れて行かれ、最終的にはフローレスに飛ばされた。

オランダ政府が1948年以降に行なった調査によると、それら100人のオランダ人女性のうち25人が性病に苦しんでいたという。彼女たちが性病を患ったのは、頻繁に相手を変えていたことに加え、排水溝もない慰安所の劣悪な状況が原因とされている。

それらオランダ人女性たちのその後は現在では定かではない。彼女たちの大半がジャワの地ですでに亡くなっていると話す者もいる。しかし、その後を生き延びた女性たちの中にはオランダに帰国できたもの者もいるとされる。

【参考文献】
★「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」(須磨明筆耕・注、PDF)

【管理人コメント】
証言の詳細は上記資料を参照してください。テンポ誌の特集は下記の記事でまとめてあります。

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