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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年7月25日)「現実に起こったカダルワティ物語(Kisah Kadarwati yang Sebenarnya)」の翻訳です。1981年に出版されたインドネシアの「慰安婦」小説を念頭に、甘言によってインドネシアに連れて来られたマレーシア華人「慰安婦」の証言を紹介しています。

現実に起こったカダルワティ物語
テンポ誌(1992年7月25日号)

韓国・朝鮮人女性だけではない。日本政府はようやく、太平洋戦争時に日本軍が設置した慰安所に朝鮮半島、中国、そしてインドネシア出身の女性がいたことを認めた。

インドネシア人従軍慰安婦の存在は日本政府が公開した資料127点のうち4点に明記されている。うち2点は防衛庁に、残り2点は厚生省に保管されていた。「それらは元日本兵の間では公然の秘密となっていた」とある外務省(Gaimusho)高官は語った。

しかし、実際には日本兵のみの秘密ではない。この問題は複数のインドネシアの小説や映画で描写されてきた。1981年に出版された小説『カダルワティ(Kadarwati)』では、スマランで日本軍が設置した慰安所に何度も言及している。作者はパンディル・クラナ(Pandir Kelana)、スラメット・ダヌスディルジョ(Slamet Danusudirdjo、退役軍人)少将のペンネームであり、関税局長を経て、最終的にはジャカルタ芸術大学学長を務めた人物だ。「私の小説はフィクション化した事実に基づいている」と現在67歳のスラメットはテンポ誌の取材に答えた。

インドネシアの女性たちは日本の甘言の餌食となったとスレメットは話す。東京の学校へ通うための奨学金が得られるという申し出は女性たちの関心を引くための餌としては非常に魅力的なものだったという。登録を行なった者の大半が裕福な、もしくは社会的地位の高い家庭の子女であったとしても驚くことではない。彼女たちは魅力的かつ賢い女性であるとみなされていた。しかし、彼女たちは罠にはまった。行き先は東京ではなかった。日本兵達に弄ばれるためにスマラン他に設置された各慰安所に収容されたのだ。

スレメットの説明は日本の厚生労働省に保管されていた資料の内容と一致する。その1947年の資料には和歌山県出身の2人の男性の証言がはっきりと記されていた。彼らの名前は黒塗りにされていたため読み取れなかったが、うち一人は当時24歳で、1942年8月から1944年半ばまでスマランの慰安所を管理していたと証言している。もう1人は当時32歳で同様にスマランで食堂と慰安所を管理していた。

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日本軍から訓練を受けるインドネシア人女性たち
割のいい仕事が約束されていた

また、厚生省には「南部セレベス売淫(Baiin)施設調査」と名付けられた資料が保管されていた。「Baiin(売淫)」は日本語で売春を意味する。この1946年6月20日付の9ページからなる手書きの報告書は日本海軍の民生部第二復員班長(hancho)によって作成された。

南スラウェシでは少なくとも29の慰安所が存在したと同報告書は指摘する。慰安所の女性の数は280名超。出身は111人がトラジャ、67人がジャワ、7人がマカッサル、4人がマンダルとなっており、その他にブギスや中国、出身地不明の者もいた。慰安所はマカッサル、パレパレ、ブルクンバ、マカレ、シンカンなど複数の地域に散在していた。

同報告書では収入の分配に関しても言及している。公式の規則では、定められた料金の半額を従軍慰安婦が受け取る権利を持つとされていた。しかし、パレパレの慰安所の管理者は気前が良かったらしく、料金の90パーセントを女性に分配していた。

日本が現在 問題としているのは、慰安所の女性たちは強制的に売春婦とされたのか、それとも自発的に名乗りを上げたのかという点だ。

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日本軍司令本部前のジャワ人女性たち
父親が憲兵隊に捕えられた後で

例えば、現在68歳のンガイラ(Ngairah)という女性がいる。彼女はソロ市で日本による取り締まりで捕えられた人物で、後に同市のホテル・ローゼ(Hotel Rose)に入れられた。日本はこのホテルに慰安婦を集めていた。

しかし、ンガイラは日本の進駐以前、まだ十数歳の頃からすでに売春施設で身を売っていた。彼女はホテルで暮らし、日本人に奉仕することに不満を感じていた。日本人はケチで、ホテルからの外出は厳重に禁止されていたためだ。日常の必需品に関しては全てが満たされていたが、支払われる報酬はごく僅かであり、家族への仕送りは不可能だった。「オランダ時代は良かった」とンガイラはテンポ誌記者のカストヨ・ラメランに語った。「お金はたくさんあったし、オランダ人は気前が良かった」

問題となっているのは、日本軍政当時に、それら女性たちは強制されたのか、だまされたのか、それとも自発的なものなのかがはっきりしないという点だ。以下に、マレーシア・クアラルンプール出身の華人系女性が日本にマナドまで連れて行かれた際の体験談を紹介してみたい。

シンセ・ケウ(Since Kew)ことケン・シー・レイ(Keng Sie Lei)は日本のマレーシア進出当時、16歳だった。彼女はすでに結婚していた。父親が日本軍の将校に敬礼を忘れた事で憲兵隊(Kenpeitai)に逮捕されたが、それがきっかけとなって「親切な日本軍の将校と知り合いになった」とシンセはテンポ誌記者のフィル・スル(Phil M. Sulu)に語った。

シンセはその後、この日本人将校を非常に信頼するに至った。そのため、インドネシアに渡って働いてみないかと持ちかけられた時にも信用していた。

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インドネシア映画「Romusha(ロウムシャ)」に見る日本兵と現地人女性
人権の侵害

シンセは他の9名のマレーシア人女性とともにジャワ島行の船に乗り込むよう声をかけられた。船は行く先々のすべての港へ寄港した。そして、どの港にも大抵は船に乗り込む女性が待っていた。シンガポールでは3人が乗船した。ジャワ島のある港では5名の女性が乗り込んだが、うち4名はすでに夫がいると話していたという。

およそ3か月の航行を経て、目的地であるハルマヘラ(Halmahera)諸島のモロタイ(Morotai)島に到着した時には、運ばれた女性の数は20名ほどになっていた。彼女たちは寮に入れられ、それぞれ十分に清潔な部屋があてがわれた。その後、シンセはようやく気が付いた。彼女たちは「休暇(yasmik ※訳注)中の日本兵に奉仕するように」と命じられたのだ。.

※訳注:原文の「yasmik」には「戦闘からの休暇を意味する」との説明が加えられている。おそらく日本兵が頻繁に使う日本語を耳で覚えていたのだろう。

もはやなすすべはなかった。故郷からあまりにも遠く離れた地で、シンセは天を仰ぐばかりだった。この場所では奉仕に関して厳密なスケジュールが定められていた。午後1時から3時は兵士たちに割り当てられた。彼らはおよそ200ルピアの切符を買わなければならなかった。午後3時から5時は下士官クラスの順番で、切符代はやや高く、およそ350ルピアとなった。夜8時から翌朝にかけての料金は1千ルピア単位で、高級将校専用となった。

「私たちは1日に5人から10人の相手をしました」とシンセは語った。当然、やりきれない思いと言い知れない程の疲労を感じていた。週に1度、医師が検査に訪れ、薬が処方された。コンドームは各部屋に常に備え付けられていた。

モロタイでのささやかな慰めと言えば、従軍慰安婦たちは休暇を取れば、市場への外出が許可されていたことだ。彼女たちには兵士から受け取った切符に応じて給与が支給された。1か月でおよそ6万ルピアの給料を得た者もいた。

それでもやはり、中には自ら命を絶つ者もいた。「シンガポール出身のセイ・リン(Cei Ling)は最終的に毒を飲んで自殺しました。肉体的、精神的な負担に耐えられなかったようです」とシンセは語った。

シンセと他の女性たちは10か月間、モロタイで奉仕を続け、兵士たちの移動に合わせてマナドへ移った。しかし、数日後には連合軍に追われたため、さらにトモホンへ移動した。

トモホンで一行は各集落へ散り散りとなった。最終的には日本の降伏後にシンセと他の女性たちは解散した。5名のジャワ出身の女性は故郷へ向かう船に乗るためにアムランからトモホンへ徒歩で向かわざるを得なかった。マレーシアへ帰る勇気が持てず、失踪した者もいた。恥ずかしさ。同様の思いはシンセも抱いていた。

シンセは現在、仏教徒としてフィハラ・スルヤ・ダルマで暮らしている。平穏な人生を取り戻しつつある。パーム糖を作っていた夫は5年前に亡くなった。あなたは(日本に)補償を要求しますか?そう尋ねると、その老婦人は静かに首を振った。

今週初めになってもまだ、日本兵の足元に落ちたインドネシア人女性が公の場に現れ、例えば補償等を要求したという話は聞かないが、おそらくそれは容易な事ではないのだろう。3人の韓国人女性やシンチェがようやく従軍慰安婦の真相を語り始めたのはつい最近のことだ。家族を恥ずかしい目に合わせたくないという思いから、彼女たちは身寄りがなくなり一人になるまで当時の記憶を心に秘めていた。今もまだ家族を持つ者たちは今後も過去に関して口を閉ざすこともあり得るだろう。さらに可能性が高いのは、彼女たちの多くが現在ではすでに亡くなっているということだ。

「そういった女性の多くはすでに亡くなってしまったと思います」とウィルヘルミナ・エンマ・カラロ(Wilhelmina Emma Kalalo、63歳)はテンポ誌に語った。この日本軍政期にマランの軍属病院にある食堂で警備員を務めていた人物によれば、日本軍の犠牲となった女性たちに現在ではもう2度と連絡を取ることはできないという。

【参考文献】
後藤乾一「インドネシアにおける『従軍慰安婦』の政治学」『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、209-245頁。

【管理人コメント】
1992年の特集です。その他の記事に関しては下記の「まとめ」を参照してください。

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