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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年7月25日)から「スマラン事件」に関する能崎清次中将の証言を紹介します。これは当時、テンポ誌のオランダ支局記者がデン・ハーグにある国立公文書館で発見した資料に基づいて書かれた記事です。

<スマラン事件:1944年2月にインドネシア・ジャワ島中部スマランで発生した日本軍によるオランダ人女性の強制連行およびが民間人抑留所に収容されていたオランダ人女性35名を強制的に慰安所へ連行し、売春行為を行わせた事件。戦後、オランダ軍による軍事裁判で慰安所開設や女性の連行に関わった日本の軍人および民間人の慰安所経営者ら13名が強制売春、強姦などの罪で裁かれた>

ある陸軍中将の証言

1948年、12人の日本人将校が複数のオランダ人女性をスマランで強制的に慰安婦にしたとして訴えられた。主要な被告のひとりが陸軍中将だった。

このところ大東亜戦争期の日本軍による従軍慰安婦問題が盛り上がりを見せているが、そのはるか以前に、12人の日本軍将校が慰安所を運営したとして裁判にかけられていた。1948年9月、ジャカルタで行われたオランダ軍による軍事裁判で、それら日本人将校に対して7年から20年の懲役刑が言い渡された。うち1名には死刑判決が下された。ある高級将校は判決前に自殺した。別の将校2名は有罪が証明されなかったため、無罪となった。

この事例はハーグのオランダ公文書館に保管されている資料に記録されていた。12人の将校たちは、スマランの4つの慰安所で35人のオランダ人女性を強制的に慰安婦にしたとして告訴されていた。スマラン倶楽部、将校倶楽部、日ノ丸、双葉荘という4つの各慰安所名は資料にはっきりと記載されていた。

事件の概要はこうだ。日本が敗北すると、オランダが過去の植民地を再び支配するためにインドネシアへ入ってきた。オランダはその時、複数のオランダ人女性が日本軍によって強制的に売春婦とさせられていたとの情報を得た。そして、インドネシアの複数の地域を再び占領するや、オランダはすぐさま調査を開始し、先ほどの12名の被告の存在を明らかにした。

Walterlooplein Oost(現在のジャカルタ、東ムルデカ通り1番地にある最高裁判所)で開廷されたバタビア軍事法廷では、スマランの4つの慰安所の存在が証明された。その4つは1944年3月から営業を開始したが、バタビアの日本陸軍司令部の命令で1か月後に閉鎖された。これは、複数のオランダ人女性がジャワの4つの慰安所で日本人将校相手の慰安婦に強制的にさせられた件が、東京の陸軍省に知られるところとなったからだろう。すぐにひとりの大佐が東京からジャワに送られ、慰安所での行為に強制があったのか調査を行なった。この大佐の報告書に基づき、東京の陸軍省はバタビアの司令部にそれらの慰安所の閉鎖を命じた。

被告の中で最も軽い懲役7年の判決が下されたのは、幹部候補生教育隊付軍医だった。この軍医少佐は判決当時にはすでに60歳になっていた。判決の理由は、この人物は慰安婦とされた女性たちの健康に注意を払わなかったため。例えば、女性たちに薬を処方することなく、性病に苦しむ者たちを放置した、などだ。

この裁判で最も重要な被告となったのが1890年石川県生まれの能崎清次中将だ。ジャワ島では、南方軍幹部候補生学校校長に任命された。

※訳注 能崎清次中将の事件当時の階級は陸軍少将、所属は南方軍幹部候補生学校校長兼駐屯地(スマラン州)司令官。

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日本による収容から解放されるオランダ人女性
日本語の宣誓書に署名を求められていた

以下は、能崎清次中将の尋問調書からの引用である。彼は判決前にジャカルタのチピナン刑務所で自殺している。テンポ誌の日本での情報提供者によれば、一連の取り調べは日本語で行われたという。デン・ハーグに保管されていた公文書にはそのオランダ語訳が記載されていた。被告たちが言及した名前のいくつかはオランダ国立公文書館側の手で黒塗りにされていた。

収容所の女性たちが関わる慰安所の開設許可が下りたとの噂を、私は1944年1月上旬に副官と(名前は黒塗り)に聞いた。それから間もなくひとりの中佐がやって来ると、当時わたしが率いていた幹部候補生学校の学生たちの欲求を満たすために、慰安所をいくつか設置するようにと私に求めた。収容所の女性たちは慰安婦として使用できるとの事だった。

私はこの件に関して異議は唱えなかった。そして、4名の部下に対して、そのような慰安所を開設するならば、まずはバタビアの十六軍司令部の許可を得ない訳にはいかないと話した。

私は抑留所には直接の関係はなかった。というのも、スマラン抑留所の件に関しては地方司令部の支配下にあったからだ。つまり、この抑留所はスマラン州知事の支配下に置かれていたのだ。

1944年2月頃、スマランの駅で私は偶然にもスマラン州長と出会った。私が前述の件を伝えた所、州長は慰安所の開設にあたって書面での許可は必要ないと説明した。第十六軍参謀長の口頭の許可があれば十分だという。この件をある中将とバタビアでジャワの全収容所を統括する少将に伝えた所、彼らが私に求めたのは、慰安所設立に関する万全な計画と、不愉快な事態を避けるため、オランダ人女性たちから自分の意志で慰安婦になったとの声明書の作成だった。

私は州長および複数名で五カ所の慰安所設立に関する計画をまとめた。この計画をバタビアへ伝えると、最終的に四カ所の慰安所設立の許可が得られた。ひとつは幹候隊将校用、その他の三か所は軍属および一般邦人用とされた。この許可に基づき、私は副官および数名にこの件に関して段取りを整えるように命じた。

1944年2月頃、私は(名前は黒塗り)から、警察官のひとりから将校クラブ用に8名の婦女を受領した旨、報告があった。私は彼に女性たちの自由意思に基づくとの声明書を確認するように伝えた所、その書類は(名前は黒塗り)のもとにあるとのことだった。私も後に、そのマレー語とオランダ語で作成された書類を見てみた。はっきりとした内容は覚えていないが、書類には女性たちの自由意思を以て日本人のもとで働くと記されていたように思う。将校クラブの開設時には私は忘れられていたため招待されなかった。この慰安所は(名前は黒塗り)の管理下にあった。これはスマランの他の慰安所も同様だった。

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ジャワの日本人将校

1944年4月末頃、慰安所の女性たちは欧人婦女たちを強制的に売春婦としたものであるため、それらの慰安所が閉鎖されるとのうわさを耳にした。慰安所の開設中、私はこの件に関して副官その他からは一度も報告を受けていない。自分の監督不行届きであったことを認める。部下に全てを任せていた。

開設から一週間後、私は慰安所の設備を確かめるために将校クラブを訪れた。その時、欧人婦女たちは私を満足させようとしたが、私自身は彼女たちと性的な関係を持ったことはない。それらの女性が強制的に売春婦にさせられたため、自殺を図ったり、病気になったという話は全く聞いたことがない。また、中には脱走したり、気が狂ってしまった女性がいるという話も聞いていない。

強制売淫の件を聞いた時、私は(名前は黒塗り)中佐にこの件に関する説明を求めたが、彼は関知していなかった。そのため、私はすぐに調査を命じた。将校クラブにおいて強制的に慰安婦とされた女性が一名いるとの報告を受けると、私は直ちにこの慰安所の閉鎖を決定した。これは各慰安所の臨時の調査を行なうため、東京から一大佐が来るかなり前のことだった。

バタビアの第十六軍司令部から慰安所閉鎖の命令を受けた時、私は恥じ入り、自らが率いていた幹候隊の名誉を傷つけたことに対して謝罪した。

私はこの件で対策を講じられなかったことを非常に恥ずかしく思っている。実際問題として、私はこの問題を終結させることができなかった。しかし、この出来事は私が計画したものではない。この事件に関して、私は関知していない。

【参考文献】
★吉見義明「オランダ人慰安婦問題-スマラン慰安所事件の顛末」『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、175-192頁。
★「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」(須磨明筆耕・注、PDF)

【管理人コメント】
現在では「スマラン事件」裁判の取り調べ記録は一般に公開されており、PDFに起こしたものも読むことができます。今回の記事はあくまでも要約であり、詳細に関しては上記の開示資料PDFを参照してください。また、テンポ誌「慰安婦」特集のその他の記事に関しては下記の関連記事でまとめてありますので、ご一読ください。

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