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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年8月8日)に掲載された「慰安婦」とされたインドネシア人女性「フミコ」の証言の翻訳です。

バンカ島パンカルピナンのある家では70歳の老婦人が日がな賭博に興じていた。彼女に言わせれば、それが過去を忘れる何よりの方法だという。あれから50年の月日が過ぎた現在でも、当時の記憶は彼女の重荷となっている。

彼女には韓国人女性のように集団で日本政府に抗議し、賠償を求める意思はない。彼女は当時を語り得る証人のひとりであるが、日本軍が専用の慰安婦とするべく少女や成人女性を探し求めたという、彼らの残虐さについては沈黙を守ってきた。そんな彼女から当時の話を聞き出すことは容易ではなかった。彼女は過去を忘れた訳ではない。その全てを、子孫を辱しめる過去すべてをなぜ話す必要があるのか、それが分からなかったのだ。最終的には自身の体験を語ってくれたが、その際、誌面では本名を出さないようにと伝えられた。

彼女は当時フミコ(Fumiko)と呼ばれていた。その名前を受け入れることで、彼女がカルン・ゴニ(karung goni、麻袋)を身に着けることはなくなった。この麻袋は日本占領下の1942年から45年にかけて、現在ではインドネシアと呼ばれる地域で普段着として使われていたものだ。彼女は小柄ではあったが、豊かな胸と魅力的な腰が人目を引いた。可愛らしい顔には厚い化粧が施され、髪の毛は束ねられていた。これが当時20歳、フミコとしての化粧だった。

フミコとその他およそ20人の「フミコ」はある「大きな家」の住人となった。「大きな家」は彼女が生まれ育った町にあり、数十の部屋と13人の警備員がいた。フミコには日本人将校らの付き添いという仕事が与えられた。彼らは夕方から深夜にかけて毎日のように酒を飲んでいた。当初は酔った兵士たちの叫び声を聞くと不愉快に感じていたが、いつの間にか気にならなくなっていた。そして、その後で酒に酔った兵士の一人に部屋へ連れ込まれるという事も分かっていた。

「彼らは残虐でありません」とフミコは語る。「性的奉仕を求めていただけです」。行為を終えると客たちがものをくれることもよくあった。大抵はアクセサリーだった。これはもちろん「良いサービスにはアクセサリーの見返り」という、その「家」での決まりだった。

こうした運命はおそらく、農家を営む彼女の両親がたまたま日本軍の兵舎近くに暮らしていたことが原因なのだろう。兵舎の男性数人が何かにつけては彼女の気をひこうとした。それ以上の悩みの種となることを嫌ったフミコはいつも、「主人は農園で仕事中です」と答えていた。もちろんこれは嘘だった。彼女は当時20歳にしてすでに未亡人となっていた。だが、ある時、不幸は訪れた。日本兵が慰安婦を探しに来た際に近所の誰かが密告したのだろう。未亡人であることが知られてしまったのだ。

そして、ある日のこと日本軍が迎えにやって来た。「私は娶られ、東京へ連れて行かれる。両親の生活は保障する、と彼らは言いました」と彼女は回想する。当時の生活はと言えば、家族は本当に苦しい生活をしていたという。「食べることさえもままなりませんでした。衣服は麻袋から作ったありあわせのもので、家族は体中を痒がっていました」とフミコは語った。

彼女や両親にとって、もはや別の選択肢はなかったのだろう。日本人たちは武器を持っていた。拒否は無駄であるばかり、さらなる災いを招くであろうことはあの当時、誰もが知っていた。「だから、日本軍に連れていかれた時、私はただ運を天に任せるだけでした」と彼女は話した。

こうして彼女は「大きな家」の住人となった。彼女の記憶では、その家には細い目をした同年輩の女性が数多くいたという。その女性たちはバンカ島周辺の村から連れてこられたと彼女は結論付けた。この場所で彼女は、他の女性らと同様に選抜にかけられた。顔と体つきが念入りに調べられた。

しばらくするとその女性たちの一部が連れて行かれた。噂ではブキティンギ-この場所にはスマトラ島における日本占領軍の3つの司令部のうち1つが置かれていた-とパダンに連れて行かれたという。彼女自身は遠くへ連れて行かれることはなく、別の大きな家に移されただけだった。

このフミコの運命は幸運なものだった。仕事と言えばベッドの上に横たわるだけ、そんな日々になかば絶望しかかっていた頃、フミコを指名した客のひとりが彼女を自分の住まいへ移すよう希望した。そして、ある日のこと、その「大きな家」で行われた盛大な宴会の最中に、日本人将校のひとりが彼女を連れて帰った。2人の同棲はその後、その恋人が日本の敗戦で帰国せざるを得なくなるまで続いた。

このフミコと呼ばれた女性は後に港で働く男性と結婚し、数人の子供をもうけた。現在では孫もいる。こうしてきちんとした家庭がもてた事に感謝している、と現在でも読み書きができないこの未亡人はテンポ誌の女性記者アイナ・ルミヤティ・アジス(Aina Rumiyati Azis)に語った。

フミコが語る「大きな家」とは慰安所に他ならないと推察できる。そして、その「フミコたち」こそが従軍慰安婦と呼ばれる存在なのだ。なぜなら、彼女たちはある場所の日本軍の求めに応じて移動を繰り返してきたからだ。その場所はひとつの地域だけではなく、国外にまで及んでいた。

【参考文献】
後藤乾一「インドネシアにおける『従軍慰安婦』の政治学」『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、209-245頁。

【管理人コメント】
上記で紹介したテンポ誌の特集記事は、以下の記事にまとめてあります。まずは読んで下さい。

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