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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年8月8日)「禾尉が記した13ページ」の翻訳です。禾晴道中尉が1975年に出版した手記『海軍特別警察隊‐アンボン島BC級戦犯の手記』をもとにアンボン島での慰安所の現状を紹介しています。また、禾氏の前任地であるマカッサルの慰安所についても若干の言及があります。

禾中尉が記した13ページ

もし仮に前述の、強制的に従軍慰安婦にさせられたというフミコの証言に確信が持てないとすれば、以下に ある日本人将校の証言を引用してみたい。彼の名は禾(のぎ)晴道。現在71歳、大阪に暮らしている。大東亜戦争期に中尉としてインドネシア東部地域に着任した。1975年には225ページの手記『海軍特別警察隊』を出版した。本文は当然 日本語で書かれているが、その著書には「慰安婦狩り」と題された13ページにわたる章がある。以下は、その章からの引用(※訳注)である。

※訳注-上記記事原文の記述では日本語原著からの「引用」と書かれているが、煩雑さを避けるためか、インドネシア人読者向けに内容を割愛もしくは編集した個所が散見される。そのため、以下は訳語に関しては日本語原著を参照したものの、基本的には記事の「引用」に沿った形で原文から訳出した。なお、該当部分に関する日本語原著からの直接の引用は末尾に訳注としてまとめて記した(【】内の番号は翻訳者が便宜的に加えたもので、末尾の引用と対応)。

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禾氏(1942年) 

「私がアンボン島に着任した1944年3月ごろは、現地にはまだ慰安所があった。慰安所にいるほとんどが現地人女性だった。大規模な空爆によって慰安所は閉鎖された。慰安所の女性たちはそれぞれの故郷へ帰っていった。帰らなかった者は民家や爆撃で破壊された家などで、ローソクをともしながらそれまで同様の行為を行なった」【1】

「ある日のこと政務会議が開かれた。これは月1回定期的に開かれる会議だ。出席者は司令官および副長、民政部や警察の代表者などだ。また、セラム新聞社からは青木、インドネシア語新聞の木元記者、宗教関係者では加藤牧師、司令部や陸軍の代表者もいた。わたし自身は特警隊の一員として参加した」【2】

「これまでとはやや異なり、今回の会議では慰安所の設置とどのようにして慰安婦を集めるかが討議された。会議は副官の大島(本名ではない)主計大尉の主導で進められた。私には治安上この問題についてどのように考えるか、という質問がきた。私は以下のように答えた。具体的な考えはまとまっていませんが、私個人としては、慰安所にはまだ若い女性がいた方がいいと思っています」【3】

「しかし、仮に現地女性を強制的に慰安婦とした場合、私は現地住民からの抵抗が発生する事を心配します。したがって、私は反対です、と。しかし、会議では反対意見も出されたが、大島副官は慰安所の設置をすでに決定している様だった」【3】

「そして、集める女性の対象がまとめられた。第一に、すでに売春婦である女性。第二に、売春行為を行なったと噂される女性。第三に、売春婦になりたいと志願した女性」【4】

「次に、どのようにして女性を集めるかが検討された。まずは売春婦候補のリストを作り、彼女たちと交渉する。しかし、その交渉は誰が行なうべきなのか。会議の出席者たちが私を見た。なぜなら、恐れられている特警の名前を使えば、万事容易に片が付くためだ。」【5】

「『現地住民の反発が生じた場合、その矛先が直接日本軍へ向かないようにする必要があります。そのためには、現地人の警察官や住民のリーダーを使うべきでしょう』と私は答えた」【6】

「副官の大島主計大尉は『多少の強制があったとしても、できる限り多くの女性を集めるべき』と答えた。そして、大島副官は自身の計画を披露した。まず第一に、海軍病院近くにある元神学校の校舎に女性を集める。集まった女性たちを美味しい食事でもてなす。つまるところ、まずはじめに女性たちには楽しいと思わせるのだ。この場所にくればよい思いができるという噂を広めることで、自発的に女性が集まるようにするために。そして、集まった全ての女性から売春婦になるという承諾書をとるという」【7】

「最終的に女性集めは大島副官が中心となり、政務隊が現地人警察を使うことで行われた。特警隊および警備隊も協力した」【8】

「戦後、私が戦犯として収容された時の話だが、当時の女性集めは複数の問題を抱えていたという。これは海軍の木村司政官が私に話してくれたものだ。『サパロワ島で娘たちを船に乗せようとした時、島の住民が突然集まり、船に近づいてきました。我々の娘を返せ、と彼らは叫び、こぶしを振り上げていました。本当に恐怖を感じたので、思わずピストルを抜きかけました。あの場面を思い出すだけで、身の毛がよだちます。もし日本の娘たちが連合軍に同様の扱いを受けたとしたら、誰もが憤慨する事でしょう』」【9】

「その後ようやく慰安所が開設された。日本軍の数があまりに多かったため、慰安所の利用に際しては切符の使用が義務付けられた。切符を使うことで調整が行われ、兵と下士官は昼、士官は夜の利用が許可された。つまり、お金があっても切符がなければ、慰安所で遊ぶことはできないのだ」【10】

「私自身、海岸沿いのビクトリア兵舎近くにある慰安所で遊んだことがある。その慰安所は空襲で破壊されずに残った元オランダ士官の宿舎だった。その時は混血の娘を指名した…」【11】

慰安所に関して、禾はまた別の経験を持つ。海軍特別警察隊隊長として任命される前の1942年9月から1944年2月にかけて、禾はマカッサル(現ウジュンパンダン、※訳注)の海軍民政部に勤務していた。当時のマカッサルには、カリマンタン、スラウェシ、ヌサ・トゥンガラ、マルク、西イリアンを管轄する第二南遣艦隊の司令部が置かれていた。このマカッサルにも慰安所は存在していたという。

※訳注:マカッサルは1971年から1999年までウジュンパンダンが正式名称だった。禾中尉が滞在した1942年から43年にかけてはマカッサル、テンポ誌の特集が発表された1992年はウジュンパンダン、そして現在ではマカッサルが正式名称となっている。

しかし、アンボンにおける慰安所の設置とは異なり、マカッサルではこの計画は民間人に任された。すなわち-おそらくトウ(Toh)という名前であったと言われる-ある中国人経営者が各種物流の手配に関して海軍のパートナーとなっていた。この中国人が慰安婦を集め、慰安所の場所の指定と管理を行なった。日本側は営業許可を出すだけだった。禾によれば、現地人女性が集められた慰安所は3軒あり、その全てが日本軍の求めに応じて設置されたという。

トウの貢献は非常に大きかったと禾は話す。そのため、第2次世界大戦終了後、海軍司令部の近くに位置していたヤマトホテル(Hotel Yamato)がトウに贈られた。ヤマトホテルは現在、ある政府銀行の支店となっている。

★ ★ ★

以下は、禾晴道『海軍特別警察隊‐アンボン島BC級戦犯の手記』(大平出版、1975年)からの引用。【】内の数字は上記の「引用」と対応。

【1】「私がアンボン島に着任した1944年3月ごろはまだ慰安所があったが、日本人女性はすでに後方に送られ、ほとんど現地人女性だった。
 それは44年8月の大空襲までは続けられたが、この大空襲を境に日本料理屋も後方に送られ、現地人慰安所もいっさい解散させられてしまった。
 彼女たちの多くは、自分の村々や、近くの島に帰っていった。帰る所があっても食えない女性たちは、それぞれ日本軍部隊の近くの民家だとか、破壊された民家の中で、ローソクをともして売春を続けていた」(110頁)

【2】「それまでも毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とはちがって、島の民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするかとか、民政関係からみて警備隊はこの点に特に注意してもらいたいとか、本質的に対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとする会議だった。
 出席者は各警備隊の司令・副長、民政部は当時政務隊となって成良司政官が政務隊長として出席し、民政警察の木村司政官も顔をだしていた。セラム新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木元記者、宗教関係からはキリスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令部からは、参謀長・先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた」(112頁)

【3】「その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかもしれない民衆の反感について討議されることになった。
 四南遣艦隊司令部の先任参謀が中心で開かれ運営されていたが、実際は副官の大島主計大尉が一人でガアガアとしゃべって会議は進行していた」(112頁)

【3】「『特警隊では治安上この問題について、どう考えるか』。
 わたしに最初の質問がきた。わたしは突然会議に出席させられたので、十分頭の中が整理されていなかった。もちろん方針について考えてもいなかった。
『まだ具体的な考えがまとまってはいませんが、わたし個人としては、若いので、あった方がいいと思っています。特警隊として、アンボン島の治安から考えれば、多少でも強制するようなことがあれば、現地人の間に反感が強くなることを心配します。あまり賛成はできません』。
 わたしは、そういった。この意見は、多少でも住民対策に関係ある民政関係者の多数意見であるようにみえた。
 会議の方向は、『原則的には反対だが、現実にはやむをえないのではないか』、という方向に動いていった。
 司令部では、だいたいやる方向で会議を運営していっていることが明らかだった。
 『現地人の治安も十分考えてやる必要もあるが、戦闘部隊である日本軍の治安も大切だから、どうしてもこの際やる必要がある』。
 大島副官の意見であった。反対意見がでようと、でまいと、すでに慰安所を設けることは決定されているようだった。出席者には、あまり強く反対意見を主張したとしても、設けられることが決定している以上、うるさい副官の感情を悪くしてうらまれてもしかたがないという態度がみえた」(113‐114頁)

【4】「最初に、集める女の対象が検討された。第一に、慰安婦の体験者を対象にすること、それと売春の常習者。第二に、あの女は売春行為をやっているかどうかたしかではないが、やっているといううわさがある者。第三に、やってみたいという志願者」(114頁)

【5】「対象が決定したので、つぎは方法であった。早急に対象となる女性のリストを作って、本人に交渉する。ある程度の強制はやむをえないだろうということだった。
 つぎは、いったいだれがそれをやるかということになった。
 出席者が私の顔を見た。恐れられている特警隊の力をもってやれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。
 『特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくからどうか。』
 副官がそう発言したので、わたしは立ちあがった」(114頁)

【6】「『もちろん、副官のいわれるようにわたしの隊で集めれば、早くやれるでしょう。それは慰安所の設置ということが、もっとも大切なことだということでしたらうなずけますが、特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者に向けられるでしょう。それが人情ではないしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります』。
 わたしは、もっともらしくそういった。めんどうなことから、なるべく逃げようという下心があった。そうするには、やはり大義名分が必要だった」(115頁)

【7】「副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、『司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多くを集めること、そのためには、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まって来る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意思で集まったようにすることにしています』」(115頁)

【8】「結局女集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになった」(116頁)

【9】「民政警察の指導にあたっていた木村司令官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。
『あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいていき、娘を返せ!!娘を返せ!!と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ』。」(116頁)

【10】「それからまもなく、各地区に女は配分され、慰安所が再び公然と開設された。
 女の数が少なく日本軍の数が多いために、自由に遊びに行くことはできなかった。当然交通整理の必要があった。戦時の食糧や衣類の配給に切符制が取られたと同じように切符割当制が行なわれた。ところがこの割当切符は、金次第ではなかった。士官は月何回、下士官・兵・軍属は月何回と決められ、切符とお金をもって遊びにいくようになっていた。切符のない者は、金があっても資格がなかった。昼は下士官・兵、夜は士官と、遊ぶ時間帯が明確に分けてあった。もちろん慰安所などに絶対遊びにいかなかった者も、相当数いたことも事実だった。病気を恐れていかない者や、それ自体を不潔だと考えていかない者も多かった」(118頁)

【11】「閉店後、二日めだったか、慰安所へいくことにした。自分でも多少身勝手だと思っていた。夕方、慰安所にいってみると、元二0警備隊の本部があったビクトリア兵舎の近くで、海岸が近かった。慰安所は、元オランダ士官の宿舎で、大空襲に破壊されずに残っていた三権が使用されていた。空襲でもあれば、一番危険なところだった。幸いにそのへんは大木が繁っていたが、ラハからの船が着く水上警備隊がすぐ近くに残っていた。その中のもっとも多いな家に、女が集まって、客を待っていた。そこには、一0人ほどの女がいた。
 そこに飛びこむように入っていったわたしは、最初に目についた目の大きいオランダ人と、インドネシア人の混血児(ハーフカス)の女を指名した」(118‐119頁)

【参考文献】
禾晴道『海軍特別警察隊‐アンボン島BC級戦犯の手記』大平出版、1975年。

【管理人コメント】
記事後半に出てきたマカッサルの慰安所の状況について、禾氏の著書には確認した限りでは該当する記述がなかったように思います(もちろん見落としという可能性は十分ありますが...)。ということは、本人へのインタビューなのでしょうか?この点に関して関連する情報をお持ちの方からのご連絡をお待ちしています。また、その他の特集記事は下記の関連記事にまとめてありますので、あわせてご一読ください。

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