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パレードの練習をするインドネシア人女性たち

インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」号(1992年8月8日)からインドネシア人「慰安婦」、「慰安所」の現地人従業員、残留日本兵らの証言を翻訳しました。

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ベアンコロップホテルからの証言 

上記の禾中尉の証言をもとに、テンポ誌記者のワスパダ・サンティンとモフタル・タウェ)はウジュンパンダンで、当時三カ所あった慰安所にいた女性たちが現在も存命中かを調査した。そして、当時を記憶する数名の年配者を通じて、日本支配の犠牲となった2人の女性を見つけ出した。うち一人は慰安所の元慰安婦であると証言したが、もう一人は口を閉ざし、自身の人生の断片を公けにしないことを望んだ。

証言に応じた女性は現在72歳。小ぶりだが高い鼻とすらりとした顎が往年の魅力的な容姿を彷彿とさせた。彼女は過去を話そうとしても言葉がのどにつかえて出てこなかった。質問の多くに「分からない」「覚えていない」と答えると、やがて涙を流した。以下は彼女の話である。

「私は当時、カンプン・ピサンのとある家に閉じ込められていました。年齢は20歳くらいだったと思います。その場所ではシティ1という名前が与えられました。私はマレー系です。あの頃は可愛らしい顔をしていると言われていました。おかげで日本兵たちにはすぐに顔を覚えてもらえした。その後、仕事を紹介され、当初は事務所のオペレーターとして働きましたが、次いで従業員としてベアンコロップ・ホテル(Hotel Beangkorop)へ移るように命じられました。そこで私は日本軍に強姦されたのです。相手は高級将校でした。翌日からは従業員、そしてベッドで将校たちに奉仕するという2つの仕事が待っていました」

「私はやがてカンプン・ピサンのとある家へ移されました。そこでは入れ替わり訪れる3人から5人の軍人に、私や他の女性たちは毎日のように奉仕しなければなりませんでした。報酬を得たことは一度もありませんが、食事に関しては満足いくまで食べられましたし、衣類も支給されました。週に一度、私たち女性は検査のために病院へ連れていかれました」

「その場所からどうしても逃げ出したかったのですが、それはとても難しい事でした。入口には大勢の兵士がいました。塀は非常に高く、飛び越えることなどできません。女性たちにとって脱走などあり得ない事でした」

シティ1は現在、身寄りもなく一人で暮らしている。ジャワ出身の夫はすでに亡くなった。子供はおらず、何も持っていない。毎日のように路地から路地へと古着を売り歩く。知り合いやその他の心優しい個人に頼って日々の生活を送っている。


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マハクレット、「叫び声」という名の村

マナドから15キロ離れた町トモハンの2人の住人がミナハサ出身の少女たちが苦しむ姿を目撃していた。証人となったのは現在72歳で農業を営むウルバヌス・タウルスと元ミナハサ県知事のアレックス・レレンボトだ。慰安所の従業員として働いていた彼らは、当時の様子を話してくれた。

「日本軍がトモハンへ進駐すると、程なくしてミナハサの村々で少女たちが連れていかれました。彼らは大抵、裁縫の学校へ通わせるという約束で説得していたようです。記憶に違いがなければ、20歳以下のおよそ100人の女性が集められました。日本はカカスカセン村で10軒の民家を立ち退かせました。その空き家に放り込まれたのが、彼らの説得を受けた女性たちです。女性は入った家々の周りはやがて塀で囲われました。隙間がなく高い塀の周りでは、厳重な警戒が敷かれました。その場所を日本兵たちが『yanjuk(慰安所の意)』と呼ぶのを耳にしました。この『yanjuk』の責任者はドイツ人女性を妻に持つひとりの日本人将校でした。日本軍はマナドのマハクレット(Mahakeret)でも『yanjuk』を管理していました」

「慰安所では午後3時ごろになると兵士たちが姿を見せ始め、賑わいは夜7時まで続きます。彼ら-数十人程でしょうか-は入り口前で列を作っていました。日本兵だけが並んでいる訳ではなく、朝鮮や台湾の兵士や時には兵補(訳注:日本軍政下のインドネシアで日本軍に雇用されたインドネシア人兵士)もいました。中からは女性の泣き声やヒステリックな叫び声が頻繁に聞こえてきました」

「『yanjuk』の生活はとても良いもので、食べ物や衣類が不足したことはありません。女性たちは賃金を得ており、健康も保障されていました。女性たちはいつ見ても美しく、不思議なことに病気はありませんでした。 ただ、あの場所に一度はいると、2度とは出てこられなかったようです。過去に2人の女性が脱走に成功し、村に帰っていきましたが、しばらくしてカカスカセン村で目撃されると、再び日本軍に連れていかれました」

ウルバヌスとアレックスによれば、日本人将校は 現在マハクレット(Mahakeret)と呼ばれる地域でも別の慰安所を運営していたという。マハクレットと名付けられたのは、その「高い塀で囲まれた家々」周辺の住民が女性の叫び声をたびたび耳にしたためだと言われている。マハクレットは現地の言葉で「叫ぶ」を意味する。

テンポ誌記者のフィル・M・スルはマハクレットの元住民に取材を行なった。この女性は当時、病院での職を与えると日本に説得されたという。彼女は慰安所に到着するとすぐに、自分が騙されたことを悟った。彼女は抵抗を試みたが、なすすべもなかった。「体中をまさぐられました。くすぐったくて疲れるまで声をあげて笑いました。抵抗する力も残っていませんでした」と、このマハクレットで三年間苦しみぬいた女性は語った。

彼女は現在、同郷の夫と結婚し、ビトゥン地域で孫と平穏な生活を送っている。「今でも日本兵を見ると虫唾が走ります」と彼女は話す。「日本製品ですって?そんなものは使おうとも思いません」


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タイラ・テイゾウあるいはニョマン・ブレレンの証言

従軍慰安婦たちは様々な運命を辿ったようだ。真っ黒や灰色な人生もあれば、薄暗い人生もあった。以下は、インドネシア国籍を取得した元日本兵タイラ・テイゾウ(Taira Teizo)がテンポ誌記者シラワティに語った証言である。

「1942年、日本軍へ入隊してちょうど3年、私がインドネシアへ入ったは23歳の時でした。それ以前は中国とフィリピンで任務についていました。私はスラバヤのカランガンに上陸した師団の砲兵隊隊員でした。私の部隊の任務はルートを開拓し、ある地域を占領する事でした」

「慰安婦というのはもちろん実際に存在しました。私自身、体験しています。日本はどうやら、たとえ戦時中であっても兵士の生理的な欲求は消し去ることはできないと認識していたのでしょう。私はその結果として、そうした女性たちの集まりが組織される過程を見てきました。日本が占領したすべての地域で、それ専用の家が自動的に設置されました。ひとつの家には最高で20部屋ほどあり、周りは高い竹の塀で囲まれていました。現地住民はそれを『竹の家(ルマ・バンブゥ)』と呼んでいました」

「竹の家の女性たちは様々でした。日本人女性専用の家もあれば、中国とインドネシアの混血女性を用意した家もありました。ただ、ここで日本人と呼ばれる女性の多くが実際には中国、朝鮮、フィリピン出身の女性でした」

「もし仮にインドネシアの女性が日本軍によって強制的に連れ去られたというのであれば、それは全くの間違いです。彼女たちは普通、現地当局の募集によって集められています。そうして集めてから初めて、彼女たちは本部へ送られるのです。したがって、仮に強制があったとしても、それはインドネシア人が自ら行なった事です。集まった女性たちは働き始める前に医師の検診を受けます。性病を持っている女性が受け入れられることはありません。日本政府は日本兵が性病に感染する事を非常に恐れていました。そのため、竹の家にはコンドームが常備され、慰安婦の健康状態は毎週チェックされました」

「竹の家には普通いくつかの種類があります。将校専用や部下用がありました。高級将校たちはこの手の場所を訪れることを恥ずかしいと思う意識があったようです。この階級になると自宅に女性を囲うのが普通でした」

「この高い塀で囲まれた家でやる事といえば、日本での私たちの習慣そのままにまずは酒盛りが始まります。夜も更けてくると、続きをしたい者は慰安婦を部屋へと連れ出します。しかし、中には単に酔っぱらうだけの者もいました。この場所で強制があったのか、私はそんな場面を目にしたことは本当に一度もありません。皆で酒を飲み、笑顔で歌を歌っていました。女性たちの中にストレスを抱え、やがては自殺に至った者がいることなど全く知りませんでした。私には日本を擁護しようというつもりはありません。私はインドネシア独立戦争後にバリ出身の女性と結婚し、家庭を持っていますので」


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ある警備員の証言

続いては、バダルことスバドラルの証言を見てみよう。現在75歳のバダルは当時、デンパサールはウォンガエ・ホテル(Hotel Wongaye)の慰安所で警備員として働いていた。ウォンガエを訪れる日本兵に時間的な余裕はなく、歓談したり、ましてや歌を歌ったりといったことはめったになかったという。それも当然の話で、大勢の客が訪れる一方で、女性はわずか20人しかいなかったためだ。

バダルの仕事は客の登録だった。氏名と部隊名の記録が終わると、客たちには慰安婦たちの写真が手渡された。写真からひとりの慰安婦を選び、窓口で切符を購入する。切符は一枚300ルピアだった。「彼らは大抵 長く遊ぶだけの余裕がないので、一部屋でかかる時間は大体10分ほどでした」とボダルは語った。ある慰安婦は1時間で2人から3人の客を取ることが可能だったという。

慰安婦たちには3百ルピアの料金のうち、半額の150ルピアが渡されていたとボガルは話す。1日で10人以上の客が取れたことを考えれば、彼女たちは十分な収入を得ていたといえる。ボダルの場合は月75ルピアの給料で一か月間きちんとした生活を送ることができたという。しかし、慰安婦たちは抑圧を感じていた。「彼女たちは客を断れませんでした。殺されるのが怖かったからです」とボダルは語った。

客たちも自由きままにウォンガエ・ホテルを利用する事はできなかった。厳しい規則があり、海軍専用の時間と陸軍専用の時間が設定されていた。はっきりしているのは、同ホテルは24時間開いていたということだ。「女性たちは一体いつ休憩を取っていたでしょうか。私には分かりません」とボダルは語った。

同様の証言は中部ジャワ・レンバンの元兵補、スルチャン(67歳)からも得られた。彼はシティ・ホテル(Hotel City、現在のレンバン映画館の入口付近)にあった「ゲイシャ・ジャワ(geisha Jawa)」という慰安所の存在を記憶している。スルチャンによれば、その場所の慰安婦は、もし仮に売春行為を生業とする者でなければ、おそらく志願してきた女性であったという。目的はひとつ、楽しい生活を送るためだ。「パンを食べるため、良い服を着るため、という事でしょう」と現在はチェプで暮らし、同市のロンゴラウェ協会会長およびインドネシア退役軍人協会会長を務めるスルチャンは語った。「私の知る限り、強制はありませんでした。ゲイシャの生活は大半の住民よりも保障されていました」と彼はテンポ誌記者のファリィド・チャヨノに語った。

上記の証言から、一体何人の女性たちが慰安所の犠牲者となったか想像できるだろう。テンポ誌記者のリザル・エフェンディは複数の情報源から、カリマンタンだけでも500人を超える慰安婦が存在したとの証言を得た。ある日本兵の証言によると、バタヴィアには10カ所の慰安所があったという。「ひとつの大隊があれば、そこには最低でもひとつの慰安所が必ずありました」と彼は日本でテンポ誌記者に語った。

【管理人コメント】
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【2014年11月16日追記】
1992年の記事です。(タイトルにも書いてあるのですが、なぜか目に入らない人がちらほらいるようなので...)

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