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インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集1992年8月8日号の「彼女たちにも選択の余地はなかった(Mereka pun Tak Punya Pilihan)」の翻訳です。太平洋戦争当時、日本兵のいわゆる「現地妻」となったインドネシア人女性5名の証言を紹介しています。

彼女たちにも選択の余地はなかった
テンポ誌(1992年8月8日)

彼女たちの運命は慰安婦ほど劣悪なものではなかったが、強制的に受け入れざるを得なかった。広島と長崎に投下された原爆によって、彼女たちと日本の「夫たち」との関係は終わりを迎えた。その中には自身の子供がその後、日本で父親に会う機会に恵まれた者もいるという。

「ハラダ(Harada)は自分自身のために私のなにもかもを欲しがりました。農場を訪れる者たちが私の存在に気が付くことはありませんでした。農場に来客があったとしても、私は姿を見せることを禁じられていたからです。来客は他の女性たちが十分な奉仕をしていました」(パンディル・クラナの小説『カダルワティ-五つの顔を持つ女』、41頁)

日本軍の足元に落ちた女性の全員が慰安所に入れられ、従軍慰安婦となった訳ではない。女性たちを自らの手元においた日本人将校や管理者もいた。彼らとは単にハラダ、すなわち冒頭で引用した小説『カダルワティ』でカダルワティを妾の類にしたフィクション上の人物のみではない。彼らは軍人であろうとなかろうと、先の大東亜戦争に関わりインドネシアで任務に当たった日本人であるが、インドネシア人女性を囲った際の経験は当然のことながら現在も本人の口から語られることはない。しかし、当時 日本人に強制的に囲われた経験を持つインドネシア人女性数名がテンポ誌記者の取材に応じ、自身の経験を話してくれた。

その女性のひとりは現在、ソロで暮らしている。彼女は近所の人々に知られるのが恥ずかしいからと、決して本名を明かそうとはしなかった。1942年に大日本軍がジャワを占領した当時、まだ16歳になったばかりの彼女は父親と5人の兄弟とともにソロで暮らしていた。母親は彼女がまだ幼い時分に亡くなっていた。

父親はオランダ軍の兵士であったため、たびたびソロ市外に派遣されていた。そんなある日のこと、父親は日本軍との戦闘で殺されたと人づてに伝え聞いた。彼女と兄弟はそれ以来、自分たちで生計を立てていかなければならなかった。

彼女はある日、友人に誘われて、中部ジャワ・チェプにある日本食堂での求人に応募した所、採用となった。食堂では料理だけではなく、大半が日本人である客たちの給仕も務めた。この場所で彼女はヤタ・マサミ(Yata Masami)という名の日本兵と出会う。彼はまだ若く、年齢は25歳くらいだったという。「引き締まったがっしりとした体格をしていました。どうやら私に一目ぼれしたようでした」と彼女は話した。

彼女自身、当時の自分は美しく魅力的な部類に入っていたという。豊満な胸とくびれた腰に、すらっとした首筋。当時のソロ女性の中では、すらりと背の高いシルエットで、肌も色白だった。マサミはその後、何度も食堂を訪れては彼女にチップを渡した。「それで私も彼には甘えた風に給仕しました」と彼女は語った。

ある日の午後、マサミはさらに踏み込んだ行動をとった。彼女を食堂のトイレを引っ張っていったのだ。「全身がまさぐられました。私は震えてしまい、どうにかしようともがき、ようやく逃げ出すことができました」と彼女は話した。「その晩は眠れませんでした」

マサミは別の日に、数名の仲間とともに再び食堂を訪れた。この時は酒を飲むためにやって来たのだという。「彼はその時、たどたどしいインドネシア語で私をきれいだと褒め、好きだと告白しました」と現在66歳になる彼女は語った。その日は、日本兵たちが食堂の従業員に対して当たり前のようにやっていた好き勝手に軽く触るといった事以外は、何もされなかった。

ある晩、マサミは再びやって来た。今度はひとりだった。マサミはこの時、彼女に一緒に来てくれないかと頼んだ。彼はやや多めのチップを払った。食事を済ませると、この兵士は彼女を食堂裏にあるトイレへ誘った。彼女はなぜついていったのか今でも分からないというが、その時の彼女にはその兵士の強制を断る術はなかった。その関係はその後もたびたび繰り返された。「時には散歩に誘われ、ある家に二人だけで行くこともありました」と彼女は話した。はっきりしているのは、彼らはその後、夫婦のように暮らしたという事だ。「彼は楽しみを求めており、私は彼を楽しませることができました。彼も好き、私も好き。私たちは楽しくやっていました」。ましてやマサミは戦争が終われば、彼女を東京へ連れて行くと約束していたという。その後、彼女が妊娠するとマサミは喜んだ。

ある日、2人の間に別れが訪れた。マサミが戦地行きを命じられたのだ。その時、彼女のお腹の子はようやく5か月になったばかりだった。彼女も兄弟の家で出産するためにソロへ戻った。彼女はひとりの子を出産し、マサコ(Masako)と名付けた。これはマサミが旅立つ前に希望していた名前だった。

しかし、それ以来というもの、マサミが姿を見せることはなかった。彼女は他の日本食堂で再び給仕として働くことを余儀なくされた。しかし、彼女はその時、もし仮に自分をトイレへ引っ張り込もうとする日本人がいたとしても、決して好きなようにさせるつもりはなかったという。「私は娼婦ではありません。私がこれまでに関係を持ったのはマサミだけです。私たちはお互いに愛し合っていました」と彼女は語った。そして、彼女にちょっかいをかけようとする日本兵は当然いなかった。彼らはマサミに敬意を抱いていたからだという。

彼女は一途にマサミを待ち続けた。食堂に日本兵が訪れるたびにマサミの消息を尋ねるのが常だった。だが、残念ながら、誰ひとりとして知る者はいなかった。日本が負け、インドネシア共和国が独立を宣言するに至っても、マサミは一度として姿を見せることはなかった。そのため、彼女はスンダ地方出身の男性と再婚を決意し、子供も授かった。

彼女は現在、スンダ人の夫との間にできた子供と一緒に暮らしている。その夫は数年前にすでに亡くなっている。マサコは現在、母親である彼女とはそれほど遠くない場所に暮らしており、すでに家族もいるという。

彼女は今でも、マサミは生きているのか亡くなっているのか、その消息を知りたいと思っている。彼女は日本政府に対して見舞金や補償金を求めるつもりはない。「でも、もしもらえるというなら、断ることはしませんが」と彼女は語った。彼女が現在 日本政府へ求めるのは、自らの夫となった人物の消息だという。「彼がすでに亡くなっているのであれば、どこに埋葬されているのでしょうか。まだ生きているとすれば、私と娘のマサコはどうすれば彼に会えるのでしょうか」。彼女はそう願っている。


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あるジャムゥ売りの回想

中部ジャワ、クドゥス、バロンガンでは、現在62歳のジャミラ(Djamirah)という名のジャムゥ売りが自らの経験を話してくれた。

日本が来た時、彼女は12歳になったばかりだった。まだ幼かったが、体は健康に育っていた。白粉を少々つければ、彼女の可愛さは日本兵を夢中にさせた。当時は村一番の可愛らしい女の子だったという。

ジャミラはその後、理由はよく分からないが、地元の村落管理者に指名されると、クドゥス地域のジャティクロン村にある麻袋の工場で働くようと言われた。工場に集められた者たちの大半が女性である事も彼女を驚かせた。耳に入るのは、ジャワに来て間もない日本の要求によるものだという噂ばかりだった。

工場で働き始めると、当時まだ12歳だったジャミラはすぐに班長(hanco)に任命された。まわりには年上の女性がたくさんいたので、これは彼女にとっても驚きだった。ところが、班長となって数日が過ぎると、今度は副工場長のシオタニ(Shiontani)の自宅に異動となった。その家で働く縫い子たちを監督する仕事が与えられたという。

そして、彼女にはその家で、わずか3人ばかりの縫い子たちを監視するよう命じられた。しかし、当然彼女には知らされなかった仕事もあった。すなわちベッドでのシオタニへの奉仕だ。「恐怖のあまり、彼に従わざるを得ませんでした」とジャミラは話した。副工場長の妾としての日々の始まりだった。そして、しばらくすると彼女にも分かってきた。工場を管理していた日本人の何人かは工員から妾を取っていたのだ。

日本人の妾に選ばれたが、それは彼女の両親と8人の兄弟にとっては恵みとなった。毎月の給料であるおよそ200ルピアに加え、シオタニはいくらか上乗せしてくれたのだ。時には100ルピア、時にはそれ以下のこともあった。それ以外にも、シオタニは彼女に衣類の生地をくれることがよくあった。そのため、当時のジャワで暮らす者の大半は物資の不足から麻袋やゴムでできた衣類を着ていたが、ジャミラの家族は布から作られた衣類を着ることができた。

それから3年が過ぎ、日本は戦争に敗北した。ジャミラもまた、他の日本人とその妾らと同様に、日本へ帰国したシオタニとの別れを余儀なくされた。その「夫」は、1台のシンガーのミシンと20ルピアの現金の他には彼女の元に何も残さなかった。

日本が去ると、ジャミラはあるウラマーの息子と正式に結婚した。7か月後-結婚からわずか7か月で-彼女は女の子を出産した。ジャミラには生まれてきた子供の本当の父親はあの日本人であることを話す覚悟はなかった。

夫は程なくして彼女の元を去っていった。ジャミラはクドゥス・クロンの織物工場で生計を立てることを余儀なくされた。1960年代に彼女は繊維工場に移ると、経営者となった。現在のようにジャム―を籠に入れて売る前は衣類の販売を行なっていたのだ。彼女は現在、10人の孫がいる。


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ライという名の2人のトラジャ女性

大東亜戦争期におけるスラウェシ島南部のタナ・トラジャは日本軍の食糧備蓄用穀物地帯のひとつだった。トラジャ県ランテパオで日本は鉱山を開き、「Chuwonoschaten Kayogi」という名のカルン工場を開設した。作業員は現地住民から集められた。

当時トラジャに配置された日本兵の数は、元中央国会議員のタンビン(W.L. Tambing)によると、おそらく1千人程度だったという。彼らは暴力をふるったり、現地住民を苦しめることはなかった。タンビンの知る限り、トラジャでは従軍慰安婦とさせられた現地女性はいないという。「いたのは日本人に娶られた女性たちです」とタンビンは語った。

そうした女性のひとりがランテパオ村の隣村、バラナ村の住人であるライ・ラプン(Lai Rapung)だ。1944年半ば、日本軍が村に進出してきた時、ライ・ラプンはまだ18歳だった。その際、タケダさん(Takeda San)-この日本兵の名をラプンはそう呼んだ-が彼女に興味を持ったという。この兵士は彼女に無理やり結婚を迫った。「もし断れば、私と父の首は刎ねられていたことでしょう」とラプンは当時を回想する。

2人は正式に結婚した。ラプンは当初、恐ろしさゆえの強制を感じていたが、日々が過ぎるにつれて、いつの間にかタケダの腕の中で守られているように感じるようになった。あの無秩序な時代において生活は保障されていた。「衣食住に事欠くことは一度もありませんでした。彼は本当に親切でした」と彼女は話した。

だが、残念ながら、タケダが彼女を抱きしめたのはほんのわずかな期間だった。ラプンが妊娠して三か月になると、日本は連合国に降伏した。彼らは日本へ帰国しなければならなかった。タケダはラプンへ日本の住所を残し、彼女が一年は過ごせるだけの現金、衣類、食料を渡していった。「彼は私が出産したら手紙を送るように言い残していきました。私も後を追って日本へ来るように言われていたのですが、母に毎回止められていました」と現在は66歳になるラプンは語った。それから6年後、彼女は現地人男性と再婚し、2人の子供に恵まれた

ラプンの話では、タケダとの間に授かった子供は現在、ジャカルタで暮らしている。すでに結婚し子供もいるという。その子供は機会を見つけて日本へ行き、父親との面会も果たしていた。その後、タケダは1982年に亡くなるまでわが子にお金を送り続けていた。ライ・ラプン自身には1円も分配されたことはなかった。

タナ・トラジャからもうひとりの女性を紹介しよう。現在67歳になるライ・サバ(Lai Saba)もライ・ラプンと同様の運命を辿っていた。日本がやって来ると、彼女は麻袋の工場で働き始めた。彼女は十分に高い教育-現在の中学校に相当する女子技術学校を卒業-を受けていたため、工場では班長に任命された。給料は月に十銭だが、当時の基準では高給の部類だった。

そして、当時はよく聞かれた話が繰り返された。彼女の上司であったヨコヤマは夜の相手を求めていた。「彼は私を無理やりに娶りました。私には拒否する勇気はありませんでした」とサバは語った。やがて、1944年末になると彼女はヨコヤマの妻となった。工場のでの班長の仕事も継続していた。無理やり結婚させられたという思いを抱いていたライ・サバもやがては感謝するようになった。ヨコヤマは親切な人間だった。サバが望むものは全てが与えられた。

1945年8月10日は子供が生まれた。ヨコヤマは帰国しなければならなかったため、何度か子供を抱いただけだった。それから数日後、日本はアメリカによる原爆投下によって降伏した。「離れ離れになる前に、彼は戻ってくると約束し、私には誰かと結婚しないようにと言い渡しました」と彼女は語った。

しかし、ラプンが辿った運命と同様に、迎えを待っていたサバはやがて、あの日本人が今後自分に会いに来ることはないと確信するに至った。それから6年後、彼女は同じマダンダン村で同村出身の青年と再婚した。彼女たちは8人の子供に恵まれた。彼女はヨコヤマに関する知らせをあれから一切聞いたことはないという。「おそらくすでに亡くなっているのでしょう」とサバは語った。


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馬を買い与えられた女性

現在67歳になる、北スラウェシ、ミナハサ、カワンコアン県のコタモバグで暮らす女性も自身の過去を振り返った。ディンチェ・パンガリア(Dince Pangalia)という仮名を名乗った。日本がミナハサに進駐した当初、彼女は20歳だった。現地で警察署長の任務に就いていたキズケ・サイトウ(Kizuke Saito)は彼女に一目ぼれしたようで、やがて結婚を申し込んだ。占領地域において、日本の警官や兵士に求婚された場合、当然のことながら断る術はなかった。

ディンチェは運が良かったと感じていた。なぜなら、その後、およそ200人のミナハサ女性が日本に連れて行かれ、慰安所に入れられたからだ。キズケがミナハサ地区のトンダノへ異動されると、彼女も連れて行かれた。「キズケはとても親切で、顔もハンサムでした。暴力を振るわれたことは一度もありません。プレゼントもしょっちゅうで、馬を一頭買ってくれたこともあります」と彼女は語った。彼女は妊娠し、レイコ(Reiko)と名付けられた女の子を出産した。

その後、連合軍がミナハサを制圧した。キズケは去らなければならなかった。ディンチェは馬車に乗って、彼をマナドまで案内した。2人が離れ離れになる前に、キズケはディンチェにレイコの面倒をしっかるとみるようにと言い残したという。「彼は本当に悲しげでした。別れに際して、こみ上げる感情を抑えることができず、私は泣いてしまいました」

日本海軍の一部隊である「Ka in Josejo」の元兵士であったヴィクトール・シンバル(Victor Simbar)によると、ディンチェ以外にも、数多くの美しい現地人女性が強制的であっても自ら望んでであっても、日本兵に囲われていたという。前述のディンチェを含め、現在も存命中の者もいる。

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